戦後俳句を読む(26 – 3)稲垣きくの【テーマ:流転】四谷左門町時代/土肥あき子

短夜や誰が出てゆきし門のおと

前書には「四谷左門町に移る」、句集『榧の実』に所収された昭和37年(1962)の作品である。

昭和37年5月、俳人協会創立時の資料にきくのは名を連ね、その住所は新宿区左門町9-2となっている。

昭和34年(1959)に開業した四谷三丁目の駅から徒歩3分ほど、外苑東通りから一本奥まった喧噪を離れた静かな住宅街に居を構えた。新宿御苑、神宮外苑に囲まれた地は都心にありながら緑ゆたかで、「療養生活を打ち切って四谷左門町に落ち着く。病後を養うにはまことに恰好の地を得た。」と当時を振り返っている。(昭和48年3月号「俳句」)

静かな夏の夜、近所の門の音がきくのの耳に届く。閑静な住宅地では、もの音が左右どちらの隣か、あるいは向かいの家からなのかはおよそ分る。だが、そのガチャリという音が「帰ってきた」のではく、「出ていった」と思う心がなにより切ない。きくのにとって門とは、入口であるより、出口であり、閉ざすときの音がことのほかひとりの胸に大きく響いてきたのだろう。

この年より、きくのは大切な人を失い続ける。
昭和37年(1962)10月、大場白水郎が死去。
翌、昭和38年(1963)5月には久保田万太郎死去。
そして、昭和41年(1966)1月8日、A氏が75歳で死去する。

さるひとの…
でで虫やどこまでひとのへそまがり

と詠み

にくきひとの…
言ひ捨ててぷいと出てゆくみぞれかな

と詠んだかのひとである。

「ひとの死ー」の前書がある五句は

先立たる唇きりきりと噛みて寒
残されて梅白き空あすもあるか
ひと亡しと思ふくらしの凍(いて)はじまる
ひと亡くて枯木影おくかのベンチ
ひとの死や薔薇くづれむとして堪ふる

さらに

世のつねの幸は念はず兼好忌
バレンタインデーか中年は傷だらけ
目刺やく恋のねた刃を胸に研ぎ
青饅や情におぼれて足掻く日々
恋畢る二月の日記はたと閉ぢ

と、もがくようにA氏への想いを詠み続ける。

そして、この別れを振り切るように、あるいは見つめ直すように昭和41年(1966)10月、第二句集『冬濤』を上梓する。

きくのの住まいのごく近所には鶴屋南北の「四谷怪談」のお岩さんを祀っているという於岩稲荷があった。縁結びとともに縁切りのご利益もあるという。「縁結び」か「縁切り」か。きくのが迷いながら歩いたかもしれない境内には、今も恋に悩む人であふれている。

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