ロバート・フロスト(1874-1963)の詩が好きだ。”Come In(入りなさい)”という詩を紹介したい。よく引用される「詩とは翻訳で失われる何かである」という彼の言葉があるが、ここでは無視して拙訳でお読み頂きたい。
森の端まで来ると
ツグミの音楽―聴け!
今、ここ森の外が夕闇なら、
内部は暗闇だ。
森の中は暗すぎて鳥でさえ
うまく羽ばたいても
心地よいねぐらは見つからない、
まだ歌うことだけはできる。
太陽の光の最後の一筋は
西の方に消えて行ったが
もう一つの歌のために
光りはツグミの胸のなかに生きている。
樹々の柱のはるかな暗闇に
ツグミの音楽は響いてゆく―
入りなさい、という呼びかけのように
闇へと、そして嘆き悲しめというように。
いや私は入らない、ここで星を眺めていよう
私は入らない。
たとえ頼まれたとしてもお断りだ、
頼まれたことも今までなかったけど。
この詩はダンテの「神曲」なくしては存在しなかっただろう、とブロツキーはそのフロスト論で述べている。ダンテとフロスト、手に余る問題。私の関心事は、フロストが何かに聴き入るときの心を含めた姿勢にある。それを忘我、無私、熱中ぶりと言いかえることができる。自然詩と見える作品が幾つもあるが、この詩のツグミに同化するように、果樹に、風に、語り手は同化する。その同化の仕方、ツグミが入りなさいというかのように、その誘いを聴く耳に彼の詩の秘密が隠れている。牧場での子牛の動作にそそぐ目にも。それらの感覚が認識と結びつきフロストの詩ができあがると言えば図式的・凡庸になるが、その結びつきの意外さがフロストの詩から学ぶものになる。
ここでは呼びかけを拒否するということが、それまでの同化の身ぶりと鋭い対照を作り出す。自然詩と見えた詩が深いドラマを孕むようになる。全20行の最後まで読むと、”come in”とは”die”のことだと分かるというのはブロツキーの繊細な読解による発見だが、まさに、そのような驚きを経験するのがフロストの最上の詩を読む愉びの一つである。