日めくり詩歌 俳句 高山れおな (2011/6/21)

十三番 欲しい

触るるもの欲しき指先星涼し 篠崎央子

右勝

欲るこころ手袋の指器に触るる 鈴木しづ子


小林秀雄は、源実朝の

大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも

の歌について、

こういう分析的な表現が、何が壮快な歌であろうか。大海に向って心開けた人に、この様な発想の到底不可能な事を思うなら、青年の殆ど生理的とも言いたい様な憂悶を感じないであろうか。

と述べているが、評者は右句の〈分析的な表現〉にもまた〈殆ど生理的とも言いたい様な憂悶〉を感じ取ることが出来るように思う。「欲るこころ」はそう言い止められた瞬間に「思い切るこころ」に変わり、すでに思い切った心が「器」(「き」と読むのであろう)に触れる指先を茫然と見つめている。しかもその指先は「手袋」によって、対象との直接の接触をすら自らに許さない。自分のものにならなかった「器」でさえなく、むしろただ自らの「欲るこころ」の残響を慈しむ、あるいは懼れる、これはなんとも悲しい“憂悶”の句ではなかろうか。

一方、左句には右句とは対照的なまでの解放感が示されている。欲しいものに思うままに触り、触れば欲しくなる。もちろん、この「指先」の持ち主が、触ったもの欲しいものを思うさま手に入れたというわけではなかろう。しかしここではとにかく、触り欲しがる自らの生理と心理の動きが、自己解放の快さとして形象されている。高度消費社会における正しい身ぶりが、「星凉し」という下五によって俳句型式のうちで肯定されているとでも言おうか。

若くして忽然と消息を絶った右句の作者は、時に娼婦俳人などと呼ばれもする人である。その名前があまりにスキャンダラスに取り沙汰されてきたことが作品そのものと端的に向き合うことを難しくしているが、残された二冊の句集を虚心に読めば、昭和戦前期の俳句の達成をよく咀嚼した、瑞々しい感性とすぐれた技術の持ち主であったことは明らかだ。じつは右句についても発表当時、この「器」は男性器のことであるという珍解釈を施す向きがあったらしい。もちろんそれは俗読みであり、「器」はどこかの店先で見た陶磁器やガラス器、あるいは銀器などを指すと受け取って何の問題もない。

左句も佳吟といってよいが、状況が明解さを欠いているのがいささか気になる。むしろこちらの句の方が性愛の一場面と考え得る余地があるものの、果たしてどうか。やはり場の状況としては右句と同様に解釈するのが素直に思える。その上で厳密に場面設定を検討すると、「星凉し」がやや気分本位で情景があやふやになってしまうのが物足りない。夜店をひやかしている、ということではあるまい。評者としては的確な物象性と暗鬱なリリシズムが結びついた右句を勝としたいが、左句の曖昧な表層性こそが良いとする人もあるだろう。

季語 左=涼し(夏)/右=手袋(冬)

作者紹介

  • 篠崎央子(しのざき・ひさこ)

 二〇〇二年、「未来図」に入会、現在は同人。掲句は、『超新撰21』(二〇一〇年 邑書林)所収。

  • 鈴木しづ子(すずき・しづこ)

 一九一九年生まれ。今年一月、川村蘭太による決定版的評伝『しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って』(新潮社)が出た。掲句は、第二句集『指環』(一九五二年)所収。

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