日めくり詩歌 自由詩 山田亮太 (2011/1/27)

長谷部裕嗣「にわか雨が止むまでに」

彼が生まれたのは6月14日の午前2時59分だった。
外は静かに雨が降っていた。
気がつくと病室で母親に抱かれていた。
父親が彼の額にそっと触れて、自分の目に似ている、と微笑んだ。
彼は泣きだした。
彼の目を見ながら、いい子だから動かないでね、泣かないでね、とカメラマンは言った。
写真を撮り終えると、彼は走って幼稚園に向かった。
彼は給食の時間には間に合わなかった。
女教師は、あなたはもうすぐ中学生になるのだから遅刻してばかりいてはだめよ、と言った。
帰り道に彼は仲間達と近くの河に行った。
土手に寝転んで煙草を吸いながら、ああ何か面白いことはないかな、と彼は呟いた。
それを聞いた恋人は、あなたはわたしといるのがそんなにつまらないの、と怒鳴った。
そういうわけじゃないけどさ、と彼は横を向いた。
じゃあ大学を卒業したらどうするつもりなのよ、と母親は言った。
彼は何も考えられなかった。
それじゃ困るんだよ、君だけが今月も売り上げが伸びていないんだから、と上司は声を荒げた。
(中略)
冷たくなった妻の手を握って泣き続けた。
娘が、お父さん、と声をかけた。
それでも彼は目を開けなかった。
彼が死んだのは6月14日の午前3時ちょうどだった。
雨はさっき止んだ。

(grambooks『いないはずの犬』所収、2012年1月)

この詩の中に何度も表れる「彼」はいったい誰を指しているのでしょうか。

1行目から順に読んでいきましょう。

ある男の子が生まれたようです。
母親に抱かれた「彼」の額に父親が触れます。
泣き出す「彼」を前にして、カメラマンが「いい子だから動かないでね、泣かないでね」と言います。

ここまでが6行目です。
ひとりの赤ん坊が誕生した日の情景が描かれているのだろうと特に違和感をもたずに読みすすめること
ができます。
問題は次の行です。

  写真を撮り終えると、彼は走って幼稚園に向かった。

この行における「彼」とは誰でしょうか。
まさか生まれたばかりの赤ん坊が突然走り出すはずはあるまい。
とすると、ここでの「彼」は「カメラマン」を指すのだろうとひとまずは納得できなくもない。
さらに次の行。

  彼は給食の時間には間に合わなかった。

「彼」=「カメラマン」は、赤ん坊やこどもの撮影を生業にしている人なのかもしれません。
病院での赤ん坊の撮影という一つ目の仕事に予想外に時間がかかっため、幼稚園の給食の時間を撮る
二つ目の仕事に間に合わなかったのでしょうか。

けれどもさらに次の行で、そんな読み方は決定的に裏切られるともに、この詩のトリックが明らかに
なります。

  女教師は、あなたはもうすぐ中学生になるのだから遅刻してばかりいてはだめよ、
と言った。

驚くべきことに「もうすぐ中学生になる」人物すなわち小学生が突如として現れます。
ここに来て、この詩の中心人物が、赤ん坊から幼稚園児へ、そして小学生へと成長していることに気づく
はずです。
以後の行で、「彼」は煙草を吸うようになり、恋人をつくり、大学に入り、そして就職します。
最後には、妻と娘の傍らで「彼」はその生を終えます。

つまり、この詩においてはある人物の一生がダイジェストで、どこからどこまでが共通の時点なのかは
曖昧にされたまま、記述されているように見えます。
言うまでもなく、「彼」という代名詞は、「カメラマン」を指すことなどなく、ひとりの人物の生誕から
死去までの時間のさまざまな時点の存在をその都度指しています。

と、こんな風に一度はこの詩を理解しましたが、もう一つ全く別の読み方もできるのではないでしょうか。
ポイントになるのは「彼」が生まれた日時、そして死んだ日時です。
冒頭の二行を見てみましょう。

  彼が生まれたのは6月14日の午前2時59分だった。
  外は静かに雨が降っていた。

次に末尾の二行を見てみます。

  彼が死んだのは6月14日の午前3時ちょうどだった。
  雨はさっき止んだ。

なんと「彼」は生まれた日と同じ日付の1分後に死んでいるのです。
もちろん同じ日付といっても、その間には何十年かの時間の隔たりがあるのだと考えることはできます。
けれども一方で、「彼」が生まれたまさにその日の1分後に「彼」が死んだのだと考えることもやはりできるはずです。
つまり、この詩の冒頭の「彼」と、末尾の「彼」は別の人物であるのだと。

そのようにこの詩を読んだとき、この詩に現れているのは、ひとりの人物のいくつもの時点ではなく、
むしろごく近しい時点を生きる多数の人物ではないでしょうか。

にわか雨が止むまでの1分間に生まれた人間と死んだ人間がいたという事実を基調に、この世界には人生に
おける様々な段階を生きる多数の人物が同時に存在しているのだと、この詩は言っているようです。

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