九十一番 皆動く (俳句の「型」研究【9】)
左勝
枯蓮のうごく時きてみなうごく 西東三鬼
右
牧夫来れば牛皆動く野菊かな 楠目橙黄子
左句は、昭和二十三年(一九四八)の『夜の桃』所収。「昭和二十年冬から、同二十二年秋までに発表した」作のうちの一つである。「皆動く」といえば誰しもこの句を思い浮かべるであろうが、楠目橙黄子が昭和十一年に出した句集『橙圃』には右句が見える。しかも、師である虚子の序文で、
楠目橙黄子君の句集「橙圃」が出版せらるゝに当つて改めてその句に接して見たのであるが、大正五年の句に、
牧夫来れば牛皆動く野菊かな
等の老成した句を見ることが出来、又同六年には、
という具合に冒頭にいきなり引かれているので、三鬼がこの句を目にし、表現を記憶していた可能性も皆無ではあるまい。もちろん両句の魅力は段違いで、老成だけではなかなか太刀打ち出来るものではない三鬼の天才を感じる。「枯蓮」が「みなうごく」ことを単に描写するだけでなく、「うごく時きて」と観念で捉えたところが今に至るも新鮮。観念的というのは俳句評では一般に悪口になるが、要はやりかた次第ということだ。「天狼」で根源俳句の説が唱えられ始めるのは昭和二十三年以降とのことで、左句はそれ以前の作。とはいえ、この句の詠みぶりなども根源俳句風としてよいものだろう。
一方、右句はどこまでも描写に徹した句で、これ自体はなるほど悪くない。しかし、『橙圃』の全体を通観するといよいよ明らかなのは、この作者は眼前の事象に縛られ、一句にごたごたと事柄を詰め込む弊があって、どこか散漫な感じを脱しきれずに終わった人のようである。読みながら、虚子ならぬ碧梧桐が唱えた無中心という言葉を思い出したことだ。とはいえ二十年間の六百数十句を収めた句集であるから、興に入った句もあるので以下に若干を挙げておく。
江の雁に艫高く漕ぐ舟夫かな
「艫高く」が格好よく決まっている。が、やはりごたつき感があるのは、「江の雁」が細かすぎるからだろうか。
焚火人面罵に堪えてゐたりけり
俳句には珍しいシーン。
廃宮に鼎大いなり春の雷
「廃宮」はソウルの王宮をさす。橙黄子は、間組に勤務し、朝鮮にも長く駐在した。亡くなる時点では、取締役副社長にまでなっている。
種子を播く拳こまかに打ちふれる
牛を外せし軛大いさや枯木宿
寺僕濡れて炕焚き廻る秋の雨
これらも朝鮮風景。三番目の句は、寺男が傘を差さず、境内を走り廻ってオンドルに火を入れてまわっているのであろう。僧房がいくつもある、かなり大きな寺院であることが察せられる。
波の上に流れ藻長き南風かな
春雨や潮路明るき魚移り
この頃は下関あたりに住んでいたらしい。両句、類句はありそうだが、「なみ」「ながれも」「ながき」が頭韻になっているなど、調べが良い。
磐石へ道ののりたる落葉かな
これぞこの作者の一世の代表作か。
枯蓮や空ゆく風につれさやぎ
内容的には三鬼の句と全く一緒。観念を排して、純粋に描写でやるとこうなる。
谷藤や揺りかへしつゝ風移り
鮎桶や水玉おどらし馳けり担き
なまこ舟礁越す波に漕ぎうつり
和布を刈るや身をさかしまの片手櫂
舟板に撲たれ横ふ鱸かな
榾の宿撃ちし鼯抛れるまゝ
最後の句の「鼯」はムササビ。これらの句、荒々しい光景を描きとめる写生のスピード感が素晴らしい。
季語 左=枯蓮(冬)/右=野菊(秋)
作者紹介
- 西東三鬼(さいとう・さんき)
一九〇〇年生、一九六二年没。掲句の引用は、『現代俳句の世界9 西東三鬼集』(一九八四
年 朝日文庫)より。
- 楠目橙黄子(くすめ・とうこうし)
一八八九年生、一九四〇年没。高濱虚子に師事。掲句の引用は、『現代俳句体系 第二巻』(一九七二年 角川書店)より。