桃ひとつをさめて重き身の芯はそのままひやり夜へ傾く 今野寿美
『雪占』(2012年 本阿弥書店)より。
盛夏、桃はみずみずしく私たちの食生活を彩るものであるけれど、この歌には何かさびしさが感じられる。
一つ一つの言葉に、母音「O・オー」の響きを重ねて置くこと、「桃」、「をさめて」「重き」「夜」は、その重量感を十分に意識して取り入れ、一語一語に神経の行き届いた一首となっている。
「をさめる」べき器としての自身の身体に、芯があり、その芯が「傾く」という。そして傾きをむけるのは夜であるという。
桃をひとつ容れた器としての肉体をこの人自身が意識して、しかもその桃の冷たさを自覚したまま、孤独さに向かってゆくような意識が抽出されてゆくようである。
『雪占』には総合誌『歌壇』に平成二十三年一月から十二月まで、毎月連載された歌が収められている。連載は一ヶ月に三十首ずつという分量であった。この分量は、精緻に仕組んで連作を発表してゆくというよりも、多く日常に材を求めた歌が主になってゆくことが自然な流れになってくるだろう。しかも、今野の場合、連載を始めた三ヶ月後に東日本大震災が発生して、期せずしてその経過を見つめることとなった。
震災に関して、様々な立ち位置の人が、それぞれどのように詠うか、という問いは、現在でも結論がないままの難しい問題であるようにも思う。今野は被災地にいるわけではないが、連載という要求があったことで、必然的にその問いと格闘することになった。
あとがきで、今野は間接者としての自分の立ち位置から歌を詠むことの難しさを率直に吐露している。しかし、「せめて自分の言葉で心の痛みだけでも残さなかったらウソだという思いにゆきついた。」とも述べて、少しずつそのときの心を記す決意を表している。
テレビの中にせよ、伝聞にせよ、震災の衝撃がやがてひそかに自らの日常に忍び込み、均らされてゆくこと、「非日常」がやがて自らの日常と同化し、意識下に馴染んでゆくことの経過が、無意識のうちに作品につづられているように思える。
それは、掲出歌が収められた「性格テスト」一連においてもそうである。
出遅れて鳴く蟬たちの八月はそのためにあるかのやうな船
もういいと打ち切つてみてかなしみはそのあとにくる かなかなが鳴く
眠れない夜に聞く蟬それなりにまちがひなく焦つてゐるなり
梅の木を伐り倒す音この丘のわれらの暮らしのそこまできてゐる
三十年の平穏揺りあげ梅の木の六十本が倒されにけり
蟬や梅の木をモティーフとして詠われたものは、この人の一つのかなしみではなく、もっと大きな、全体的なかなしみを表しているようにも思うのだ。加えて、一首ずつが掲出歌と同じように、言葉一つずつにも注意が払われ、大切に詠われている。
月並みな言い方ではあるけれど、一首ずつに言霊が込められていると言ったらいいのだろうか。「震災をどう詠うか」という四角張った命題に作者としてどのように応答するのか、という構えた詠い方ではなく、ひとつひとつの歌の力を信じて、真摯に歌い続ける姿勢に、改めて純粋に詠うことの意味を感じる歌集である。