我が夏の快楽や蝶を見て死なむ 宮崎大地
作者宮崎大地を知る人は少ないだろう。1951年生。高校2年生(1968年)から作句を開始し、高柳重信からその才能を認められながら、1974年、突然筆を折った人物。
宮崎が俳句から去った理由はわからないが、その一端ではないかと考えられる出来事は、高柳重信が書いた文章(注1)から読み取れる。
「五十句競作」を計画したとき、せめて第一回だけは多少の成功を収めたいと思い、まず入選第一席に推すべき一人の青年を、あらかじめ用意していたのであった。(中略)個人的に作品の提出を求めた結果、すでに百句以上を手元に持っていたのである。そこから(中略)五十句を選び出しさえすれば、それだけで充分に入選作として推す価値はあった。しかし、その二十歳ほどの青年は、それを選句の暴力と言い、彼の自選五十句でなければ嫌だと頑張り、遂に応募を断念してしまった。
宮崎はかなり多作で、在籍していた「歯車」に、特別作品として一度に227句を発表したこともあった。そして蝶を偏愛していた。橋口等によると、橋口が確認できた宮崎の俳句約600句中、約1割が蝶をモチーフにした作だったという。(注2)
変身のさなかの蝶の目のかわき
火は蝶となり絶対の石がある
直立す蝶も鰈も八月も
ジパングも黄泉も黄金や蝶の春
掲句について。喧噪の夏に、集団から離れ、孤独のうちに蝶を見て死ぬことを望む人。そのことを快楽と言い切ること。蝶はむろん生物学的なそれではない。宮崎は「俳句といふ言語芸術の世界で、自然を素材にして作品を作るなどと平気で書き散らかしてゐる人達がゐるとは、何とも奇妙だ」
(注3)とまで述べているのだ。
世界中に、蝶と霊魂を結びつける伝承が残っている。例えば新潟県には、病気のおばばが息を引き取った際、おばばの鼻の穴から白い蝶が抜け出し、外へ飛んでいったが、周囲の人間が「魂呼ばい」(再生の呪術)を行うと、その蝶が舞い戻ってきて、おばばの鼻の中へ入り、おばばは生き返った、という話がある。もしその話に従うのであれば、「蝶」は死者の魂ということになり、最愛の人の臨終の際に深く絶望し、一緒にあの世へ行くことを選択した、と読むことができる。
しかし、これは若干陳腐な鑑賞かも知れない。俳句で「蝶」といえば、富澤赤黄男の「蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない」
(注4)という箴言を思い出す。俳句の詩性を追求し続けた赤黄男の姿を考えあわせると、この句は宮崎の、俳句という「言語芸術」に殉じたいという気持ちを表現していると読めないこともない。彼の作品の秀逸さは、逼迫した緊密な言語空間の構築にある。宮崎の俳句は言葉によってしか作られ得ないものだ。読者は、彼の言葉の谷間で遊ぶ蝶となり、おのおのその「言葉」に酔うのが一番心地よいのかも知れない。
東日本大震災以降、俳句に関わり続けることの意味や、表現に関わる人間の良心とは何か、考えさせられる機会が多かった。その明確な答えはまだ出ていないが、筆者は、結果的に若くして筆を折ろうが無名だろうが、俳句表現史上(俳壇史上では決してない)残すべき作品や俳人を語り続けていくことが、俳句に関わる人間の当然の行為なのではないかと思う。今回、この稿で宮崎大地を取り上げたのは、そこに理由がある。
最後に宮崎の作品をいくつか紹介する。
人の死へ船虫くくと寄りつどふ
血は花火身に爆発の予感あり
七月へ爪はひづめとして育つ
天の川精虫ははの中を行く
けんけんの花野健忘症の鳥
球体やそこより恥毛見えそめて
胃壁より一魚あかあか失踪す
Aの木にBの鳥ゐるうるはしや
なはとびの少女おびただしき少女
戴冠の我が名をきざむ大地かな
注1「俳壇時評」(「俳句研究」昭和52年5月)
注2「宮崎大地論」(「歯車」300号 平成16年11月)
注3「現代俳句の理想と現実」(「俳句研究」昭和49年7月)
注4「クロノスの舌」(「薔薇」昭和29年~31年)