俳句時評 第12回 湊圭史

 初めまして、湊圭史です。ピンチヒッターということで「俳句時評」を担当することになりました。よろしくお願いします。

 ちょっと自己紹介をしておくと、私は自由詩と川柳を書いています。俳句も書かないわけではないですが、句会を楽しむのを目的としてなので、とても真面目に俳句ジャンルにとりくんでいるとは言えない。のですが、まあ、そうした斜めからの視線というのもジャンルを考える上では貴重だろう、と考えて引き受けた・・・ということにしておきます。また、関西(京都)在住というのもお誘いいただいた理由のひとつのようです。これも、私自身が常々考えていることと合致していて、東京の「壇(らしきもの)」の「雰囲気」が遠くからよく見えることもあると思いますので、気軽に?突っ込んでいこうかと思います。

詩? 文学?

 と、時評を引き受けたわけなんで、私の中のマジメな部分がちょっとは俳句誌も覗いとかんといかんよと囁きました。で、本屋にいったわけですが・・・。家に帰ってみると、角川の『短歌』誌が手中にありました。あれ、イカン。

言いわけをすると、特集の「詩性を得るヒント」というのが、川柳や俳句を考える時いつもややっこしいなと考えている私自身の懸案とひっかかったので、『短歌』誌になったのですね。けっして、俳句総合誌が面白くないとか、そういうわけではないと思います(たぶん)。

 なぜ「詩性」という言葉に引っかかっているかというと、ある作品を「詩でない」とか「詩である」とかよくみなさん断定するのですが、その根拠がよく分からない、というか、根拠は言えないけど自分の好み、という告白の意味しかない(のに他を否定する)ように聞こえる場合が多いからなんですね。最後の切り札として使っているコトバにしては、その意味合いがあやふやで、簡単に言うと、まともで意義ある批評の用語とは考えにくい。

 一方で、「俳句は詩である」といった言い回しが、言語による表現である、といったレベルの意味合いで言われることもある。こちらの場合では、「詩」の意味合いが広すぎて、これまた使える用語とは言えない。

 同じような、ふわふわとした価値づけのコトバに「文学」っていうのもあります。たとえば、桑原武夫の嫌俳論。あれ、桑原は俳句のことはぜんぜん話していないわけですよね? 自分が思う文学はこんなものである、っていうのをぼんやりと主張している、ってのが内実で。また今からみると、小説ジャンルについても、桑原さんの論理ではつかめてるように見えません。岩波新書の桑原著『文学入門』を読んでみると、教養主義のリアリズム小説が彼にとっての「文学」なのですね。「大衆文学」もいちおう「認めてあげる」という立場のようですが……。

 まあ、過去の人についてはさておき、俳句は詩なのか、文学なのか。個人的には、詩でも、文学でもないものを抱えてこそ俳句であろうよ、と思うのですが、いや、真面目に論じ出すと相当シンドイですね、これは。

 と、『短歌』からさえ引用していないワガママな文章になってきました。これまた、イカン。岡井隆さんの記事「詩についてのノート」から最後の部分を引用してみます。

多ジャンルにまたがりながら、短歌だけの持つてゐる特質をしつかりとつかんで立つといふこと。平凡ではあるが、現代の歌人に要求されるのは、さういふ、つつましいともいへるが、結構、大へんな覚悟であり、努力なのではあるまいか。

このアイデアは汎用性がありそうです。ジャンル関わりなく、現代の表現は、あるレベルでは直接にジャンル外の情報環境に接続されざるを得ない(「多ジャンルにまたがりながら」)、しかし同時に、ジャンル内の論理という支え(「~だけの持つてゐる特質をしつかりとつかんで立つ」)がなければ、周囲の情報に単純に呑み込まれていってしまう……。そりゃ、「大へんな覚悟であり、努力」でありましょうよ……。

女性俳句(&女性川柳)/破調

 と、上のところまでを書いた後、角川『俳句』も購入。まあ、せっかくの機会なんで俳句の勉強も。

 特集は「女性俳句のこれから」(前についているキャッチフレーズ、「百花繚乱――俳句に生きる!」が何なんですが……)。読んだ感想は、とても面白かった。しかし、サワヤマの俳人が記事を書いてますね。多いなあ、俳人は。

 と、ここで、個人的に選んだ女性川柳20句を。

国境を知らぬ草の実こぼれあひ     井上信子『 井上信子句集』
腰ふれば句がふる因果はつなつの    時実新子『時実新子全句集1955‐1998』
胎児せがめば日は蒼々さをさをと鳴き交わす   渡部可奈子『鬱金記』
あかんべをして咲き切ったチューリップ  田頭良子『田頭良子(川柳作家全集52)』
たたんだままの翼 口紅つけてみる    遠藤泰江『遠藤泰江(川柳作家全集17)』
男の視野をゆらりとよぎるだけのこと    山本乱『山本乱(川柳作家全集98)』
身を反らすたびにあやめの咲きにけり  大西泰世『こいびとになってくださいますか』
いちぢくの乳から逃げて砂漠まで    坪井篤子句集『花花 HANAHANA』
地吹雪の底からへその緒を探す     櫟田礼文『櫟田礼文集(セレクション柳人4)』
少年を抱くばたばたと死ぬ月のうさぎ    情野千里『情野千里(川柳作家全集49)』
美術館で違う絵を見ている二人   赤松ますみ『赤松ますみ集(セレクション柳人1)』
朝焼けのすかいらーくで気体になるの  なかはられいこ『脱衣場のアリス』
自販機の中に雨降る ボトル落つ   小野善江『バックストローク』第15号
ビル解体姉のうしろで鳥になる     樋口由紀子『容顔』
金子みすず詩集の下に蛭遊ぶ      北沢瞳『バックストローク』第17号
さくらさくらこの世は眠くなるところ  松永千秋『松永千秋集(セレクション柳人18)』
誰なのよ森の出口を縫ったのは   広瀬ちえみ『広瀬ちえみ集(セレクション柳人14)』
足首を交差してゆく黒い紐      草地豊子『バックストローク』第1号
今日ママンが死んだ 迂回路をさがす  内田真理子『ゆくりなく』
はつなつのななめうしろで蓋があく   畑美樹『畑美樹集(セレクション柳人12)』

 角川『俳句』に戻ると、筑紫磐井さん「劇場型から深慮まで」の分類はなるほどです。「劇場型の女性俳句」、「男らしい女性俳句」、「天真爛漫な女性俳句」、「深慮の女性俳句」といった型は、上の川柳にも当てはまりそうですね(あれ、川柳から戻ってないな、笑)。

 他、記事では仁平勝さんの「定型の成熟と喪失 7 あらためて破調」。「過激な破調」の代表として、加藤郁乎、阿部完市の二人をあげていて、まあ、意外ではないんですが、二人ともマイ・フェイヴァリットでもありますので、楽しく読みました。ちょっと分からないのは、

ところで、いま見てきてたような「過激な破調」は今日の俳壇ではあまり流行らない。なにも流行ればいいというものでもないが、どうやら「定型の成熟」と引き換えに「喪失」されてきたもののようだ。

という最後のところ。「定型の成熟」という視点がいまいちピンと来ません。時評シリーズのタイトルなんで、ちゃんと前から読んで意見するべきかも知れませんけれど……。破調がなくなってきたのは、破調を生み出すような意志とそれを支える背景がすり減っただけなんじゃないかなあ。ちなみに、川柳でも、破調は近年、下火です。

冷房のない部屋で書いてるんで、もうそろそろ熱中症になりそうです。京都は暑いです。で、このへんで失礼をば。あれ、結局、俳句は一句も引用してないや(笑)。

執筆者紹介

湊圭史(みなと・けいじ)

昭和四十八年九月大阪府生まれ。

詩誌『Lyric Jungle』、川柳グループ「バックストローク」「ふらすこてん」同人。

ブログ「海馬-みなとの詩歌ブログ http://umiuma.blog.shinobi.jp/

」、

短詩サイト「s/c http://sctanshi.wordpress.com/」を運営。

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