男出て茄子畑を蹴る雹の変
『山姿水情』(1981年)所収の句。
夏の夕方。突然の雷鳴とともに、ばらばらと大粒の雹が降りそそぐ。雹がやむとあとには無残な光景がひろがっている。車の窓ガラスや街灯の覆いは割れ、ビニールハウスは裂け、収穫を待つばかりだった野菜や果物は薙ぎ落とされている。屋内に避難していた男が畑を見回り、腹立ちまぎれに落ちた茄子を蹴っている。
葦男の俳句には様々な男たちが出てくる。友、父、吾子、師と呼ばれる近しい存在から、少年、青年、老人など人生の多様なステージにある男性像までがそこには含まれる。
父子新年ボデイを軽く打ち合って 『機 械』
まばゆい少年池畔に栗の花荒さび 同
更に、給仕、火夫、勢子といった職掌・役割を持つ人々や、髭面、広額、剃り跡青い仲間、濃い眉毛同士など身体的特徴で示唆される一群の男たちがいる。
給仕戻る寒の外気の香を放ち 『火づくり』
動乱買われる 俺も剃り跡青い仲間 同
彼らには年齢・境遇相応の属性が賦与されている。表情や身のこなし、話し方の癖や体臭といったもの、つまり身体性にもとづく男くささを備えているといってもよい。しかし、葦男俳句にひとたび「男」「男等」という抽象的語彙が使われると、状況は一変する。
男等の事務暗しチューリップの割れ目 『火づくり』
頭かかえた男置き 脚の群とだえる 同
どんどん溢れる無言の男等夜霧の駅 同
みどり流れる車鏡 男のさびしさ照り 『機 械』
これらの作例に出てくる男たちには身体性にもとづく男くささが乏しい。寡黙かつ無表情、去勢された家畜のように存在感が希薄なのである。その中でわずかに生きた人間の体温を感じさせるのが茄子畑を蹴る男であろう。もっとも、予期せぬ天変を前になすすべもない彼にとっては、売り物にならない茄子を蹴ることでなけなしの怒りを吐き出すのが精一杯の感情表出なのだが。
ところで、「男」に随伴するこのような諦念もしくは無力感イメージは葦男という作家に巣くう或るコンプレックスの表象ではないかと筆者は疑っている。すなわち、さきの大戦における日本の敗北および自身の軍歴欠如によるそれである。
秋風が面うつ打つにまかせける
『火づくり』「風の章」の連作「終戦 三句」の第一句めは敗戦に呆然とする葦男の自画像である。連合国に対する無条件降伏と陸海軍解体は当時の多くの日本人に集合的トラウマを与えた。しかし、肺患を以て兵役を免ぜられた葦男の敗戦には「戦わずして敗れた」という苦味が伴ったのである。
国民皆兵の軍国にあって兵役を果たせないのは一種の不能者であり、友人や兄弟の戦死の報に接するごとに、葦男が焦燥と無力感を募らせたであろうことは想像に難くない。日本は負けた。死力を尽くして戦ったが、負けた。だが、少なくとも自身に関する限り、一弾も放つこともなく負けたのである。敗戦がもたらす集合的トラウマと兵役免除による個人的トラウマ。表象としての国家レベルでの去勢と自身の不能意識。これらが知的操作の及ばぬ葦男の無意識の中でいつしか無力で受け身の「男」イメージへと結像していったのではないか。
葦男という俳号は『古事記』の葦原色許男(葦原醜男とも書く)に由来すると聞いたことがある。葦原色許男は大国主神の別名である。肇国神話の英雄の名を己が俳号とした葦男。
そこに男性性への屈折したこだわりを見るのは深読みに過ぎるのであろうか。
アイスキャンデー売れず予備隊志す 『火づくり』