枝豆は妻のつぶてか妻と酌めば
昭和49年。第2句集『孤客』より。
「風土」というテーマを選んでおきながら、憲吉には風土的な俳句は少ない。大阪の北浜に生まれたから、大阪が風土?そんなことはありはしない。初代灘屋萬助が天保年間に大阪で料理屋を開業、2代目が明治になってから長崎料理の味を加えて大阪今橋に料亭「灘萬」を開く。3代目は第1次世界大戦講和会議の日本全権大使である西園寺公望公爵の料理人として随行、灘萬を世界に知らしめた。経営の才に闌けていた3代目は、食堂やらスーパーマーケットなどの新機軸を打ち出し、大衆化路線も兼ね備えた。それが功を奏したのが戦後で、大阪の本店を、東京のホテルニューオータニ山茶花荘に移し、昭和61年東京サミットの公式晩餐会をこの山茶花荘で開催した。この時の首脳は、中曽根康弘首相、レーガン大統領、サッチャー首相だったとか。関係ないことながら、昨今のサミット首脳の何と小粒になったことか。憲吉はこの店のぼんぼんとして育ち、専務を務めていたから、憲吉の風土は「灘萬」だったと言わねばならない。伝統的でありながら、洒落ていて西洋かぶれで、大正デモクラシーのうきうきとした気分に乗った楠本憲吉は灘萬の中から生まれた男であったといえよう。憲吉の師の日野草城もそうした風土にある時期なくはなかった。
*
今回選んだのは、そうした外在的な風土ではなく、自らがつくり出した風土である。今見ても女性に好かれそうなタイプ、というよりは俳壇史上もっともいい男で金があった【注】から至る所で遊びまくり、自らも語り周囲もそれを知っていた。その家庭がどういう状況になっているかは想像するに難くない。先日も、夜中まで遊びまくってタクシーで自宅に帰ったが、奥方は先に寝てしまっており、憲吉先生は勝手口からそっと家に消えていった話をその場で見送ったお弟子さんからじかに聞いたが、これは「風土俳句」の舞台である東北より、もっと修羅の地であった。
掲出句、ある和睦が成り立って酒を酌み合っているが、いつ何時噴火が始まらないとも限らない緊張した平和である。つぶてとなって飛んでくるのは、言葉か、枝豆か。武器こそ違えここは戦場なのである。なお、どう見てもここで飲んでいる酒はビールである。成功した俳句は、何も描かなくてもそうしたディテールを浮かび上がらせてくれる。独特の言語世界が存在している。
だからこうした家庭風土俳句は枚挙のいとまもないほどであるが、みなそれぞれに成功している。
ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし 52年4月
ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し 52年5月
言っておくがこれはよく見る「連作」ではない。心を新たにして俳句を読むのであるが、家庭風土がちっとも変わらないからついつい翌月も自己模倣的に同じテーマで詠んでしまうのである。嘘が充ち満ちている家庭、妻は恐ろしく、夫は哀しいと作者は言うのだが、元凶は99%自分である。第一、ちっとも深刻でないことが憲吉の反省のなさを物語っている。しかしこれが文学であるのだ。詩人や純文学者が認めてくれるかどうか知らないが、「黄表紙」「洒落本」の世界に通じる、2流志向の本格文学である。昨今の1流志向の末流文学(俳句)とは違うのである。その証拠に、我々は癒される。
【注】憲吉は俳書の収集家としても有名で、憲吉が死んだときは、蔵書が市場に出回るのではないかと言うことで、神田では俳句関係の古書が値崩れを起こしたという伝説がある。