戦後俳句を読む(4-2) ―テーマ:「死」― 三橋敏雄の句 / 北川美美

手をあげて此世の友は來りけり

「あの世」と「この世」。

書かれていないのに書かれているように読める作品。逆転の回路である。読者の中にそれを呼び起こさせようとしているのではないか。概念として投げ込まれた言葉は、個々の読者の中で観念となる。詩歌の本領であろう。書かれていない「あの世」。「あの世」の友は来ない、「この世」の友だからこそ生きて手をあげてくる。両方事実である。

「あの世」の概念は、古代エジプト文明からあり、死後に世界があるというのは、生きるものに「魂」があると信ずる所以であり尊厳である。英物理学者・ホーキング博士が、「天国や死後の世界は実在しない」と述べた記事(*1)は、死んだ本人が「あの世」を感じるかという視点であり観点が異なるが、元も子もなくなる。「あの世」は、残されたものが想う古代からの死生観だ。

作品、風貌からの三橋敏雄は、肉體と精神の「健全さ」が「死」を遠く感じさせ、それ故、「この世」のリアルがある。頑強な體が三鬼、誓子、重信(*2)とは別の大物にした理由の一つと思える。三橋の「死」には、陸・海・空にひろがる大らかなものがある。

死の國の遠き櫻の爆發よ       『まぼろしの鱶』
たましひのまはりの山の蒼さかな   『眞神』
死水や春はとほくへ水流る
散る花や咲く花よりもひろやかに   『長濤』
死に消えてひろごる君や夏の空    『疊の上』
肉體に依つて我在り天の川      『しだらでん』

遠い「あの世」に友がいる。「この世」に残された僕からみえる風景がある。

「この世」により「あの世」を潜ませ、「友」をよりリアルにする。省略、読みの飛躍により、いかに句に現実感を与えるか、それは俳句形式そのものに立ち向かう行為であると思える。三橋作品が、リアリティを持つという実感は、氏が「夢の句」を嫌い、認識の薄い「聖五月」という語を俳句に使用することを非常に嫌ったという証言とも一致する。(*3) 

掲句は、『巡禮』の6句目に収められている。(*4

第二回「腿高きグレコは女白き雷」第三回「山山の傷は縱傷夏來たる」に続き、またも係助詞「は」を使用している句である。


*1)Stephen Hawking ‘There is no heaven; it’s a fairy story’ Sunday 15 May 2011 Guardian, U.K.
*2)西東三鬼、山口誓子、高柳重信。それぞれ療養歴あり。
*3)「三橋さんは夢の句が嫌いだった。」故・山本紫黄談。「聖五月」を嫌ったことは、同じく山本紫黄、桑原三郎・池田澄子からの証言。
*4)『巡禮』製作1978(昭和53)年(1979南柯書局)。一頁一句A6判小句集。偶数頁の右上、奇数頁の左上に、仏頭のような挿絵を置く。永田耕衣の絵である。自ら間奏句集と名付け50句を収録。限定250部。

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