天地や揚羽に乗つていま荒男
まず「一寸法師」のお話。
鬼から姫をお守りした一寸法師は小槌の魔法で立派な青年になり姫と夫婦になれた。しかし、倉橋由美子の『大人のための残酷童話』―「一寸法師の恋」では残酷な続きがある。姫は夫である一寸法師の肝腎なところが一寸法師であることに満足できず、姫は一寸法師と罵り、小槌で叩きあう夫婦喧嘩に。互いに小槌を振り回し、二人は、またたくまに塵ほどの大きさになったという結末である。掲句は、残酷童話の後の一寸法師を詠っているように思えた。姫の支配下から解放され、悠々と空を羽ばたいている一寸法師を想像する。
揚羽は揚羽蝶のことで季節は夏。蝶は、そのひらひらと飛ぶ姿が、浮遊する魂を天界に運ぶとされてきた。不思議な羽の文様にも自然界の魔性さえ感じる。ここでは「いま荒男」が乗っている揚羽の存在こそが重要である。
一寸法師は、『御伽草子』の中の登場人物であるが、上掲句が収録される『眞神』には、先の第八回テーマ「肉体」―文中引用句「肉附の匂ひ知らるな春の母」で触れた、一寸法師サイズ、生を受ける前の視点で詠まれている句がある。
霧しづく體内暗く赤くして
産みどめの母より赤く流れ出む
身の丈や増す水赤く降りしきる
そして、母への思慕、エロスへとつながる。
夏百夜はだけて白き母の恩
夏百夜の句は、母者物といわれる母親に女性の性を詠んだ句で、人気のある句である。こちらの方が敏雄の夏の句として代表的かもしれない。色紙にも好んで揮毫したようだ。
句集『眞神』の中の句はどれも一句として独立しながら、無季句をより際立たせるかのように配置の工夫がされている。そして赤子、父、母、たましい、山、川、石、赤・・・「眞神曼荼羅」を巡る題材が詠みこまれている。連句の手法である。
「明治時代に連句が滅びた理由なんていうのは、もう完全なマンネリズムの集積だよね。いろんな約束が多いから、それに則ってやってったら、いくら変化を重んじるっていったって、変化しないわけだ。あたらしい俳句のひとつの方法として、歌仙なんて形ではない、新しい形の「連句」っていうのを考えてみてもいいね。それは、新興俳句のときの連作と、どこかでつながってくるんですね、ですから連作と連句の両方を合わせた新しいスタイルができれば面白いと思うんですよ。僕の『眞神』っていうのは、連句の付け方のいいところをとってやっているわけですよ。これは読んでいれば仕掛けがあるなって分かる。言われちゃうとまずいんだけれど(笑)。同じことをずーっと並べるんじゃなくて、一句一句違った世界が響き合うように並べていくと。」
(『恒信風第二号』三橋敏雄インタビュー(*1)
上掲句に戻る。「天地(あめつち)」は、「自由の天地を求めて旅立つ」「新天地」の天地、あるいは宇宙。そして「荒男(あらお)」は万葉の言葉であり、「荒々しい男。勇猛な男。あらしお。」(デジタル大辞林)という意味。明治~昭和の登山家・随筆家である小島烏水の『梓川の上流』に「北は焼岳の峠、つづいては深山生活の荒男の、胸のほむらか、」という雅なしらべがある。そして白泉にも、荒男の句がある。
この子また荒男に育て風五月 渡邊白泉
そして、蝶に乗ると言えば、この句。
ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう 折笠美秋
蝶に乗るのは女とは限らない。たったいま魔性の揚羽に乗った男、「いま荒男」は、一寸法師改め、宇宙に存在する生まれてこなかった赤子のたましい、死児の視点を描いたように思える。『御伽草子』の一寸法師も元々は水子、あるいは死児の話かもしれない。
*1)『恒信風第二号』三橋敏雄インタビュー/聞き手:村井康司、寺澤一雄、川上弘美