いつせいに柱の燃ゆる都かな
読者の記憶から掘り起される映像がある。その映像がどのように映し出されるか作者は読者に任せるしかない。何よりも読者自身が句に向き合わなければその映像は見えてはこない。
掲句は、多くの論者から評され戦後の代表句のひとつとされてきた。昭和二十(1945)年の作、『まぼろしの鱶』『青の中』に収録されている。
一句として成り立つ、先の百年も残る無季句を得たいという敏雄の信念が伝わってくる。
「いっせいに柱が燃える都」という現象は尋常ではない。都が燃える要因となるものは、革命、テロ、暴動、戦争、天災など。さらに、都はどこの都という限定された場所ではない。ただ、「都」という言葉から、政治・行政・皇帝などの中枢機構が置かれている街というイメージを持つ。ポンペイ、バスチーユ(パリ)、ロンドン、平城京、天安門、本能寺(京都)、江戸、何処の都市でも、何時の時代でもよいのである。世界遺産登録の建造物、ひいてはその大元であるユネスコ憲章の世界平和(*1)をも考える、とにかく壮大な句である。俳句はちっぽけな驚きばかりでなく、歴史的な事象を想起させることもあり、ということをこの句を通して知ることができる。猛烈な火の粉をあげ都が燃えている。炎柱と炎柱との狭間にうごめく民衆の姿、声を想像する。大惨事である。
技法的には、「柱の燃ゆる」の「の」は、独立句の主格を示しており(*2)、更に「燃ゆる」の古語表現により、雅で歴史的な音感、質感を持つ。そして「かな」の詠嘆により崩れゆくもの、喪失していくものの美を感じる。『まぼろしの鱶』の昭和三十年代の項から昭和四十年代に制作された『眞神』での復活まで、この「かな」が姿を消す。それは三鬼の影響もさることながら、過去の新興俳句弾圧に対する抵抗とも感じられるのである。
制作年の昭和二十年は第二次世界大戦が終結した年であり、日本各地の小都市の多くが空襲の被害を受ける。確かに、制作年から考えれば、「空襲、特に東京大空襲を詠んだ戦争句」という多くの解説の通り、空襲の惨事に結びつけることができるだろう。しかしながら敏雄は、『まぼろしの鱶』の選句時にあえて何年何月何日という具体的な事象、場所がわかる句を外している。
制作年が同じ頃の敏雄の作品。
こがらしや壁の中から藁がとぶ 昭和二十一年作
梟の顔あげてゐる夕かな 〃
むささびや大きくなりし夜の山 昭和二十二年作
終戦で混乱した頃において、この落ち着きようである。敏雄は、あえて現実を、あるいは戦火想望俳句ひいては新興俳句を早急に遠い目線で見つめ直そうとしていたように思える。戦争が終わった安堵感と同時に暗闇の中の行き場のない悲しみ、慈しみ、そして不安を感じる。
「俳句は一たび作者の手を離れてのちは、そこに使われた言葉の意味と韻律から触発される映像表現に一切を掛けている。」『まぼろしの鱶』後記
「いっせいに…」の句は、ほんの前に起きた生々しい記憶の絵コンテだったかもしれないが、遠い記憶、回想のように滅びゆく美しさすら詠っている。敏雄を通過した言葉から生れる映像は、読者に遠く切なく迫りくる。敏雄は、具体的事象の概念を外すことにより、読者の(それもまだ生まれていない読者も含む)記憶に刷り込まれた映像に懸けたのである。
掲句から六十六年経過した現在も時空を超越する壮大な句である。
*1)ユネスコ憲章前文は以下で始まる。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」
*2)格助詞「の」が独立句の主格を示す他の句例: p>
五月雨の
ふり残してや光堂 芭蕉
おのづから影の
出来たり籾筵 高屋窓秋
夕つばめあつまつてとぶ空の
あり 石田波郷