戦後俳句を読む(14-1)― テーマ:「春」― 三橋敏雄の句 / 北川美美

釘買って出る百貨店西東忌

世の中には常識外の行動で美談となる人がいる。敏雄の先師・西東三鬼もそのひとりだろう。「自由奔放」「放浪者」「モダニスト」「エトランゼ」「ニヒリスト」など三鬼を表現する言葉は限りない。生前の三鬼と敏雄の関わりは、渡邊白泉の斡旋によりはじまり敏雄18から41歳、三鬼が鬼籍に入るまで続いた。西東忌は、四月一日である。

掲句は三鬼への先師追慕であるとともに愛憎と客観がある。三鬼を言い当てるような「百貨店」、「西」と「東」に距離を置く「西東忌」、何故「釘」を買って飄々としているのか、そこに心情が伺える。

掲句から直ちに連想したのは、映画『復習するは我にあり』(公開:1979年、監督:今村昌平、原作:佐木隆三)である。殺人鬼・榎津巌(緒形拳)が雑司ヶ谷の薄暗いアパートの洋ダンスに、老弁護士(加藤嘉)の屍体を閉じ込め、自分の頸をネクタイで絞めるしぐさをする。そして、タンスを封じるための釘と金槌を商店街に買いに行く。どこか清々しい顏をしている。『復習するは我にあり』はキリスト教の言葉である。新約聖書の「悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう」という意味であるらしい。

『まぼろしの鱶』後記

当時、傍目には華麗な三鬼の、それ故に無慙な実生活振りは、具体性をもって、私の魂の避難港として在った。

三鬼が商売に失敗したり、突然神戸へ移転したり、俳句以外のさまざまな武勇伝(例えば神戸の遊郭をツケ払いで遊ぶなど)が本当の悪だったかは、敏雄自身にしかわからないが、三鬼作品が「悪意に満ちた美」であることはわかる。「釘」は、少なくとも三鬼作品を表現するに的を射ているし、そこにキリスト教的暗喩が感じられるのは確かである。更に、釘を買ってどうするのかということになれば、書かれてない「金槌」は、既にあると読め(神が金槌を振り降ろすのかもしれない)、没後の西東三鬼の行く末を自ら背負おうという所作に読める。

故に、敏雄が大工ヨゼフになろうと決意の上、バーニーズニューヨークから出てきた、という光景である。百貨店ならば、例え五寸釘、犬釘であろうとも取り寄せ可能である。

聖燭祭工人ヨゼフ我が愛す 西東三鬼

上掲句対する敏雄のシニカルな呼応でもあるだろう。弟子になりたいと訪ねた白泉に三鬼のところへ行くよう薦められ、そのまま三鬼の身辺に渡る関係がはじまった。敏雄の才能、人格、存在の全てを真っ先に三鬼から愛されたのである。男同志のドラマ(私淑の白泉との三角関係も含め)がある。掲句は、西東忌四月一日はエイプリルフールであることも不思議な句である。

掲句は第一句集『まぼろしの鱶』に収められ、三鬼の祥月命日、1965(昭和四一)年四月一日に上梓された。敏雄は、三鬼没後十年に『西東三鬼全句集』(*1)の刊行に尽力した。まさに釘の集大成かもしれない。

上掲句、とても好きな句だ。


*1)『西東三鬼全句集』(1971年・都市出版社、編集:三橋敏雄・鈴木六林男・大高弘達、監修:平畑静塔・三谷昭)、更に補強版の『西東三鬼全句集』(1983年・沖積舎、編集:三橋敏雄)を敏雄単独で編集。

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