戦後俳句史を読む (19 – 1)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(1) –

はじめに

「戦後俳句史を読む」は、「戦後俳句を読む」を補完しながら新しい戦後俳句史の構築を目指したいと思ったものであるが、あまりにも壮大なテーマであるために参加者一同まだ全貌をとらえ切れていない。特に一人が10年かけて取り組むべきものを、毎回読みきりにしようとするのは無理難題かもしれない。ただ言ってみれば、「詩客」のリレー時評(週更新)の<俳句時評>を、対象を一気に戦後65年にまで広げたものと考えてみれば多少執筆は楽かもしれない。<俳句時評>がぴちぴちの若手が若い感性で書いているのに対し、これは甲羅に苔の生えた豈の同人たちが仙人のような英知を結集して、しかし若手より過激な歴史を書くことになるであろう。

とはいえ、切り替えのために、「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会(仲寒蝉編)の元になった5人の回答があるので、まずはそれから紹介しておこう。ちょっとした、相馬遷子を材料にした歴史発見とみてよいかもしれない。

筑紫磐井①

  • 1.遷子の俳句の特色についてどう考えるか?(題材、文体など)

筑紫:風景俳句(戦後の馬酔木高原派も含め)、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句と分けてみたときに最も関心を持ったのは開業医俳句であった。独自の俳句だからであるし、遷子が住んだ長野県は独自の地域医療が見られた意味でも題材自身が独自であった。それ以外の俳句はいくらでも同様の俳句を作ることのできた人があり、遷子とそれらの人は程度の差でしかなかったように思う。

その意味で、遷子の開業医俳句を引き継いだ者はいなかったし、独自の地域医療の問題が解消した時代からは遷子自身の開業医俳句も消えてゆく。期限限定、地域限定の俳句であった。しかしこうした限定された(行ってみれば極限の)俳句であったからこそ、独自の俳句が生まれ、それは普遍的価値を持った文学へと昇華しているのだろうと思う。

我々の『相馬遷子 佐久の星』がこれほど注目を受け、すでに売り切れ、さらにたくさんの問い合わせが集まったためすでに邑書林が9月中に新訂版の発刊を宣言したのは予想外の驚きである(実際刊行できるかどうかは知らないが新聞で予告したので書いておく)。これから、新しい俳句を見通す上で、歴史に埋もれてしまった俳句の流れを知っておくことは重要である。

  • 2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?

筑紫:戦後俳句の理解のためには、沢木欣一、能村登四郎、金子兜太らが行った社会性俳句とは別の、より広い社会的な志向を持った俳句というコンセプトを定めてみる必要があると思っていた。およそ文学に志を持つもので、社会に関心のない作家などいないからであるが、「社会性俳句」という概念は社会性俳句以外のそうした俳句を切り捨てる意図を持っているように思う。無視されたそれらの俳句は、しいていえば、「社会的意識俳句」と呼んでもいいだろう。戦後俳句を読み解く中で、「社会性俳句」ではない、歴史に埋もれた「社会的意識俳句」を再発見する必要があると思う。

区分的にいえばもちろん「社会的意識俳句」の中に特定のイデオロギーや態度をもった「社会性俳句」がある。しかし、そうした「社会性俳句」の外側に、それとは別の膨大な「社会的意識俳句」が存在したのだということを忘れてはいけないのだ。

だから社会性俳句が廃れたとしても、社会的意識俳句は社会との関係においてなおその後も生き残っていた。社会的意識俳句は、俳句と社会のあり方の両方に根ざした本質的な俳句だからだ。

「俳句」編集長大野林火が行った特集「俳句と社会性の吟味」(昭和28年11月)は「社会性俳句」の中で語られるべきだが、その後の特集「揺れる日本――戦後俳句二千句集」(昭和29年11月)で戦後の政治社会風俗を項目分けして各誌に掲載された例句二千を集大成した企画は「社会的意識俳句」の中で捉えられるべきだ。例えば、「揺れる日本」に紹介された、

インフレの街の夜となり花氷 岩城炎 21・10
ラヂヲまた汚職をいふか遠雲雀 萩本ム弓 29・5
絞首刑冬の鎖はおのが手に 小西甚一 24・3
深む冬接収家屋の白き名札 草間時彦 28・6
桐咲いて混血の子のいつ移りし 大野林火 28・5
血を売る腕梅雨の名曲切々と 原子順 24・9
堕胎する妻に金魚は逆立てり 野見山朱鳥 24
嘆くをやめかの裸レヴューなど見るとせむ 安住敦 24・7
汝が胸の谷間の汗や巴里祭 楠本憲吉 28・9
小説は義経ばやり原爆忌 佐野青陽人 27・12

などの句は、何らかの意味で社会的意識を持った俳句ではあっても、社会性俳句ではなかったはずだ。もちろんこうした俳句は文学性を含めて厳密に検証されるべきだが、こうした背景を持つ俳句を我々が忘れてしまってよい訳ではないことは確かだ。社会性俳句がもし否定されたとしても、上に挙げたような俳句やそのモチベーションを社会性俳句と一緒に葬ってしまうことは危険である。

こうした「社会的意識俳句」の中で代表的な作家として相馬遷子をあげたいと思うのであるが、もちろんそのほかにも多数の社会的意識を持った俳句作家はいたはずである。かれらは社会性俳句作家ではないかもしれない。しかし、社会的意識を持って俳句を作っていた。こうしたもの言わざる多数の俳句作家は、「別の遷子たち」と呼んでもおかしくないように思う。

  • 3.戦後の政治と遷子について述べよ。

筑紫:東大卒のインテリ程度の政治感覚は持っていたが、それを行動に結びつける意思はなかった。佐久に蟄居して、一方で生活の困窮と、自分の患者たちが置かれている環境の劣悪さから、東京の開業医たちとは違った鋭い感覚が次第に育っていったことは間違いない。しかしだからといって、取り立てて優れた思想になっているわけでもないし、困窮劣悪に対する解決策を提示できているわけではない。

のちの、6の質問にも関連するのだが、こうした政治的不満から自然へ対比する程度が高まっていったのではないか。開業医としての社会的意識とリリシズム、それこそが遷子にとって価値のあることだったのではないかと思う。

戦後俳句を読む(19 – 1) 目次

戦後俳句を読む/「男」を読む

戦後俳句を読む/それぞれのテーマを読む

相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(1)

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One Response to “戦後俳句史を読む (19 – 1)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(1) –”


  1. かよふ
    on 6月 6th, 2012
    @

     読みました。僕は馬酔に所属して居たことがあったのでそっちに引きつけてどうしても考えて仕舞いましたが。

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