癌物語 井谷泰彦
癌は霊的な病である
託宣を始める霊能者や呪術師たちが
病者の周りを取り囲み
先祖の因縁や生霊を語りはじめる世界は
源氏物語の舞台と変わらない
オフィスの隣席でネクタイを締めて働いていた同僚のマジカルな変身が
病者を驚かせてくれる
癌は霊的な病である
心の隙間から芽を出して
臓器にゆっくりと網状に茎を広げて行った
癌の方では合意の上でというのかもしれないが
私としては、湾曲したJR渋谷駅のホームと電車の隙間に滑り落ち
突如風景を見失った体験に似ていた
隙間から隙間へスッと入り込む影の束の間の挨拶
癌は霊的な病である
入院前日、おむつをしている孫娘のミクリンをからかったら
「ジイジ、ウルサイ」と蹴りが入った
それから私は都立駒込病院に入院し
抗癌剤治療の副作用で胃腸が荒れはじめ
気が付くと売店で大人用紙おむつを買い求めていた
おむつをはいて四股を踏み、結界を作った
癌は霊的な病である
時には自分の尿も聖水へと姿を変わるが
真似をして生命を落とすリスクの方が確率は遥かに大きい
癌が水を吸い上げる三途の川の河原の
一参与観察者として見るならば
癌をめぐる言霊の飛び交う地平こそ
数千年前から現在の科学技術までの
あらゆる錬金術が試みられる壮大な鑪場に他ならない