【仲寒蝉】①
仲:まず題材。高原派として知られるように初期から終戦後しばらく、昭和30年過ぎくらいまで、つまり『山国』の頃までは自然を対象とした俳句が多かった。そうは言っても従軍時代の戦争詠、佐久に戻って開業してからの医業に材を取った句なども混じっており、それが『雪嶺』の時代になって医業や病人を題材にした医師俳句、同じ地平上にある社会を詠った俳句が目立つようになる。また家族を詠んだ俳句が数を増してくるのもこの頃から。晩年の『山河』になると同じ自然でも「わが故郷」としての山河をいつくしむように詠む俳句が主となる。また医業の俳句がほとんど詠まれなくなるのと機を同じくして自分や家族の老・病・死、やがては自身の病気(或いは病気の自分自身)を題材にした俳句が大半を占めるようになる。
文体については切字「や」「かな」「けり」と句末が動詞で終わる句の数について調べた結果から
1)「かな」「けり」の使用頻度が「や」に比べてかなり少ないこと。
2)『雪嶺』では「や」が頻用されていること。
しかし『山河』の入院以後にはまたほとんど見られなくなること。代って「よ」「か(疑問)」が目立つようになる。
3)動詞で終わる句がとりわけ『雪嶺』以後に多くなること。
4)万葉調の「も」は『山国』に顕著であること。
が分った。
句末に使用されることが多く古臭い感じのする「かな」「けり」は避けられたようだが、句の途中に感嘆詞的に使われる傾向のある「や」は多用されている。波郷(「鶴」)の唱えた「古典に還れ」よりも秋桜子(「馬酔木」)の万葉調の影響の方が少なくとも『山国』の時代には強かったと言える。
また句末を動詞で終える句が『草枕』25.0%、『山国』22.9%、『雪嶺』30.9%、『山河』26.9%と平均4分の1もあり、とりわけ『雪嶺』以後に多い。遷子の俳句が散文的と言われるのはこのあたりにも起因するのかもしれない。
仲:高原派と呼ばれた遷子ではあったが『山国』の終り頃、昭和28年頃より医業を含めた生活詠が多くなってくる。患者の貧しい生活や税金、医療費のことを取り上げた社会性俳句と呼んでもいい内容の句が増えて来るのだ。そう言えば『俳句』で特集「俳句と社会性の吟味」が組まれたのもこの年であった。昭和31年に沢木欣一『塩田』、昭和32年に能村登四郎『合掌部落』と所謂社会性俳句の潮流が高まってくるのと軌を一にしている。
また先に述べた句末を動詞で終える句の多いことについては所属していた「馬酔木」が新興俳句への架け橋的な存在であったことと関係があるのかもしれない。
一方で昭和30年代に西の兜子、東の兜太を中心に俳句界を席巻した前衛俳句の影響はほとんど受けていない。それは有季定型をほぼきちんと守るその詠み振りを見ても分る。遷子に破調の句は少ない。昭和30年代から40年代前半、つまり前衛俳句華やかなりし頃と重なる時代の句集としては『雪嶺』があるが、字余りの句は95/430=22.1%である。これを多いとするか少ないとするかは他の作家と比べてみる他ない。極端な例として赤尾兜子を見ると、『雪嶺』の刊行年(昭和44年)に近い昭和40年刊行の『虚像』では何と95.2%までが破調である。遷子の俳句の姿の正しさは写真に見る彼の背筋の伸びた姿勢に通じる気がする。
仲:政治についての句は『雪嶺』に多い。選挙や核実験、果てはプラハの春を蹂躙したソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)の戦車まで読んでいる。ただ核実験を愁い、戦争が終わって欲しい(ベトナム戦争の頃)と願う気持ちは通常の市民感情の域を出るものではない。半ば自嘲を籠めて詠まれた
人類明日滅ぶか知らず蟲を詠む
は定家の「紅旗征戎わが事にあらず」に通じるものがある。その意味では
ストーヴや革命を怖れ保守を憎み
は遷子にしては珍しく己の政治観を表明した句である。これが詠まれたのは昭和36年(1961年)であるが、2年前の1959年にはキューバ革命が起こっている。1961年はベルリンの壁が構築された年であり翌年にはキューバ危機、と正に東西冷戦の最も激しい時代であった。日本国内でも前年には60年安保、浅沼社会党委員長刺殺事件と続き政治の時代の様相を呈していたから知識人たるもの政治に無関心ではいられなかったろう。その意味で革命は困る、しかし保守にもまた与しない。つまりリベラル派というか良識ある一知識人として中立を守るという姿勢が読み取れる。但し語調の激しさから単なる日和見ではなく積極的中立とでも言える立場であったろう。