超戦後俳句史を読む  序説 ―― 『新撰』世代の時代:②     /筑紫磐井

超戦後俳句史の必要性

時代を一つ戻ってみて、第2の世代について同時代の論考がなかったわけではない。振り返ってみると次のような記事が記憶に残っている。

①朝日新聞「Front5解纜する俳人」(朝日新聞60年9~10月)
    ⇒佐野典子、皆吉司、金田咲子、田中裕明、坪内稔典を取り上げる。

②飯田龍太「新鋭の諸相」(俳句研究61年9月))
    ⇒「俳壇」の若手80人特集から選んだ論評で、島谷征良と小澤實を高く評価し、また保坂敏子と岸本尚毅の今後に特に期待していた。

③小林恭二「新人類俳句ベスト30」(文藝春秋61年11月))
    ⇒夏石番矢、小澤實、田中裕明、皆吉司、岸本尚毅、長谷川櫂、山田耕司を取り上げる。

しかし同時代は同時代で、眺める目は少し狭い。それは飯田龍太とて免れるところではなかった。その意味では、平成5年に刊行された大井恒行編集「俳句空間」の特集「現代俳句の可能性」ごろからやっと客観性のある視点を確保したと言えよう。それは、もっと時間が経過して現れた小川軽舟の『現代俳句の海図』(平成20年)を批判することのできる堅実な視点でもあったと言うことである。高山れおなが行った小川への批判は、「現代俳句の可能性」から『現代俳句の海図』への批判であったと言うことができるであろう。

因みに平成15年には、「豈ー俳句空間篇ー」で「現代俳句の可能性」の取り上げた戦後生まれ作家13人のさらに10年後の軌跡を展望している。

超戦後俳句史においても、『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』収録の座談会はまずその一義的な資料となるであろう【注】し、これらのコレクションの作家について論じている「週刊俳句」をはじめとしたブログの記事は同時代資料として貴重であると思う(当事者である山口優夢の『抒情なき世代』はこれを単行本化したものである)。しかし、同時代資料としての弱さもそこには含まれるはずである。以下では、出来る限り同時代を抜け出す視点を確保するか、そういうつもりで考えてみたいと思う。

因みに、冒頭述べた世代論であるが、このように世代でくくることにより出てくる意義もあると思う。つまりこうした活動自身が、世代更新(世代交代ではない)を進めていることになるからだ(世代交代は前の世代を抹殺すること、世代更新はジャンルを維持するための次の世代が生まれてくることを言う)。と同時に、世代論というのは年齢論ではないと言うことにも注意しておきたい。戦前の人間探究派の石田波郷は能村登四郎よりも若かった。登四郎が登場したときは、彼よりずっと若い金子兜太らの戦後派世代に括られて論じられてしまっている。年齢とは別の同質性を認められたからである。『新撰』世代の意義は、そうした同質性から外れる『新撰』世代以前の作家を棚上げにしてしまうところにあるのではないでか。棚上げにされたくない、プレ『新撰』世代に自らのアイデンティティを問うてみたい。


【注】『新撰21』に始まった新しいセレクションシリーズのまとめられる経緯、またその時の編者たちの意図や構想は「週刊俳句」で語られている。

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執筆者紹介

  • 筑紫磐井(つくし・ばんせい)

1950年、東京生まれ。「豈」発行人。句集に『筑紫磐井集』、評論集に『定型詩学の原理』など。あとのもろもろは省略。

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