超戦後俳句史を読む  序説 ―― 『新撰』世代の時代:④     /筑紫磐井

大人の解釈

もうひとつの基準と言えば、多様性である。かって飯田龍太は、「新鋭の諸相」でこのように述べている。

「通読してまず印象されたことは、僅かの例を除いて、意味不明の、晦渋苦悶の句がほとんど見当たらず、新人にしては全般的に作品が極めて温雅であること。第二にはそえぞれ所属結社やグループを異にするにも関らず、作品を見る限りででは、その点の区分は判別し難いこと。戦前派もとより、つい十年二十年前までは、表現技法を含めて作品志向全般に、そえぞれ所属する派の特色が色濃く現われたものであるが、このたびの作品群にはそうした蛍光は殆ど見当たらない。」(飯田龍太「新鋭の諸相」(俳句研究61年9月))

これは龍太が読む対象とした「俳壇」同年8月号「二十代三十代作家八十人集」自身がそうした傾向でまとめられていたものかもしれない。それにしても世代論の総括としての印象であるだけに龍太のこの認識は注目すべきである。

前述の「俳句空間」の特集「現代俳句の可能性」は龍太の鑑賞から7年後であるが、谷口慎也・攝津幸彦・西川徹郎・宮入聖・金田咲子・久保純夫・筑紫磐井・江里昭彦・大屋達治・正木ゆう子・片山由美子・対馬康子・林桂・長谷川櫂・夏石番矢・四ッ谷龍・田中裕明・岸本尚毅らをとりあげている。もちろんこうしたラインアップに完全はないのであり、例えば小澤實を拾い洩らしているなどの致命的な欠点はある(小川軽舟の『現代俳句の海図』に載る中原道夫、石田郷子、櫂未知子らはその後の登場であろう)ものの、多分「俳壇」特集より広いスコープになっていると思う。そしてこの「俳句空間」の総括座談会では、晦渋苦悶に満ちた句から隠者の世界まで実に多彩な傾向であったことが語られているのである。つまり7年前の龍太は世代の特性を読み切れていなかったということなのである。「俳句空間」のこの特集が、飯田龍太の「雲母」終刊の直後であったことが、時代を見ることの難しさを象徴しているように思われる。

いずれにしろ、新しい世代の登場にあたり多様性がないはずがないのであり、逆に既成の世代、大人たちの基準は、こうした多様性を見えなくする方向に働くことが分かるのである。

文法、切字や切れ、季語の有無、これらのすべてが新しい世代の多様性を疎外する役割を果たしている。そしてこれを総括する言葉が「これは俳句ではない」という批評なのである。俳人協会副会長の言うような「俳句と俳句に似たものに分けよう」という提案はまさにこれを戦略的に組み立てた言葉であったのではないか。しかし、こうした戦闘的な老人だけではなく、善意に満ちた老人たちも「私には分かりませんな」「ちょっと難しくて付き合いきれませんな」という言葉により間接的に戦闘的な老人の手助けをしていることになるのである(言っておくが、新撰世代の中にすらこうした発言をしている人たちが少なからずいる。結局、『新撰21』が目指した世代の連携、共感は夢物語に過ぎないのであるが。)。

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執筆者紹介

  • 筑紫磐井(つくし・ばんせい)

1950年、東京生まれ。「豈」発行人。句集に『筑紫磐井集』、評論集に『定型詩学の原理』など。あとのもろもろは省略。

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