新撰21を読んで / 鈴木淑子

私はいままで特別に俳句の研究をしていたわけではないし、特にこの俳人について詳しいというわけでもないのですが、せっかく頂いた機会ですので今回は『新撰21』を読んで自分なりに感じたことを書いてみようと思います。

私は句会に出席する機会も少なく、他の結社の方々と交流する機会もほとんどありませんでした。この度の企画のおかげで実にいろいろなタイプの俳人と出会うことができたことは幸せなことでした。
私にとっての俳句は日記です。振り返ったときにその時の自分のことがわかるという感じで、まさに自分のために作っています。大学卒業後、母の趣味に付き合うように始めた俳句。初めはどちらかというと心情というか、心に映った景色をもとに季語を探して俳句を作ることが多かったのですが、近頃は季題発想というか、じっくり季語を見つめて自分なりの視点に立って俳句を作るという作句方法に変化が出てきました。特に最近では一ヶ月に一つの季題で三十句を作る、ということにチャレンジしています。
俳句という文芸作品が誰かの目に触れることになるとすれば、自分が表現したものがどれだけ相手を納得させることができるかが重要と思っています。自分が表現したものに対し「あぁ、確かにそうだな」と思ってもらえたり、その情景が目に浮ぶものであるかどうか、共感できる俳句かどうかで、人の心に長く残る俳句になるのではないでしょうか。
逆に今回、『新撰21』を読んで「え、そうなの?!」とか「全然わからない」というものもありました。斬新…というか、奇抜…というか、そうなってくると何でもありだな、と思えるものもいくつかありました。

俳句には俳句のルールがあると思っていて、まあ縛りとも言えるのですが、有季であるとか型とか、それがなければ短い詩とも変りはないのかなと思います。縛りのあるなかで作るから面白いとも言えるのではないでしょうか。
季語があっても、「その季語、どうしてそこに使ったの?」という俳句もあります。季語の必然性というか、心情で俳句を作った時ほど陥りがちと思うのですが、季語が動いてしまうのではせっかく俳句という形にしたのにもったいない。
では、心情で俳句を作らず、とにかく写生をしていたら俳句で言えることなどなくなってしまうではないか、というのはまた違います。他の人がまだ誰も言っていないような新発見をしたり、誰もが当たり前だと思っていたことも俳句にしてみたら逆に斬新だったりすることもあるのです。

そんな私の考え方のなか、『新撰21』で特に気に入った五句を選んでみました。

ゴム毬と秋天を突くアシカかな   矢野玲奈
ひもの屋の干物のための扇風機   相子智恵
着ぶくれてビラ一片も受け取らず   高柳克弘
礎に一歩をかけて墓洗ふ   中本真人
枯蟷螂人間をなつかしく見る   村上鞆彦

特に矢野玲奈さんの句には共感できるものがたくさんありました。矢野さんの視点や言葉の選び方が素敵だと思ったので、矢野さんの句から五句選び、私なりに感想を残したいと思います。

ゴム毬と秋天を突くアシカかな
情景そのものが浮びます。「秋天」という季語も効いていて、秋の高い空に向かってゴム毬を突ついているアシカの姿が見えてきました。

箱庭に天動説を思ひけり
動かない小さな箱庭を眺めるなかで、動きのある大きな自分の姿から天動説を思う…これは新しい発見でした。

薄氷の割れて人魚の鱗かな
薄氷は、その薄さから割れるときには細かな罅が入ります。それを鱗と捉え、さらに人魚という幻想的なものを連想する…人魚は見たことないけれど、きっと冷たいものなんだろうなと想像しました。

大胆な足の運びの西瓜割り
西瓜割りをするときは普通目隠しをしているから、そろそろと足を探りながら行くはずなのに、それを「大胆な足の運び」で行く豪快さ。情景が浮び、思わず「おぉ、おぉ!」と声をあげてしまいそうでした。

スケートのはればれしたる刃音かな
固いスケートリンクの上を滑って行くエッジの音が聞え、「はればれ」と滑って行く、自信に満ちた笑顔のスケーターの姿が見えました。

『新撰21』を読み、自分のなかにある漠然とした俳句に対する考えと向き合うことができました。そしてまた、刺激を受けることができたと感じています。

これからもいろいろなタイプの俳人がいろいろな俳句を作り、日本の美しさや輝きを、そして俳句そのものを後世に残していくことを願います。

執筆者紹介

  • 鈴木淑子(すずき・としこ)

昭和五十五年、東京都生まれ。
平成十五年、慶應義塾大学文学部卒業。
「知音」同人。句集「震へるやうに」。
俳人協会会員。

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