自由詩時評 第12回 野村喜和夫

「詩人たちの春」──4月下旬、フランスの2詩人、クリスチアン・プリジャンとアンヌ・ポルチュガルを招いて行われた一連のイベントのタイトルである。震災でほとんど春のない春となった今年の日本の状況とはうらはらな、一見のどかなイベントが行われたようにみえるが、内容はさすがに状況を反映して、深く多様に詩の問題が追及された。全体のコーディネーターは、日仏両語にまたがって活躍する関口涼子氏。詳しくは「現代詩手帖」7月号をみていただくとして、私は上記2詩人と関口氏、および日本の女性詩人新井高子、水無田気流による座談会の司会を務めた。そこで面白かったのは、詩人のポジションをめぐる日仏の微妙な違いである。私が詩人とはある種のメディエーターではないでしょうかというと、すかさずフランスの2詩人から反論があがったのだ。詩人に安易にロマン主義的な予言者のイメージを与えるのはどうか、詩はあくまでも言語内での出来事であり、たとえどんなカタストロフがあろうと、黙示録のように状況との関係を設定すべきではない。至極当然な意見だが、私とて、メディエーターという言葉でなにか超越者のロゴスを聴取するような予言者的機能を考えていたのではなく、むしろ、むしろロゴスにならない声、ロゴスに封殺された声、あるいは地の微細な声、死者や動物たちをも含む微細な声を集めてテクストへと組織するひとつの装置、それ自体も地表を走り回っておのれを解体したり複数に分裂したりしている活発で平滑的な装置、というぐらいの意味で考えていたのだった。それがフランスの詩人にうまく伝わらなかったのは、やや残念なことではあった。

「言葉を信じる」──同じ4月下旬に、近代文学館で行われた震災のためのチャリティ的な詩人たちの朗読会の、これはまたなんとも素朴すぎるタイトルだ。出演詩人は、白石かずこ、天沢退二郎、高橋睦郎、天童大人、稲葉真弓、平田俊子、小池昌代、四元康祐、髙貝弘也、田原、和合亮一、田中庸介。会場には時局の深刻さを反映した重苦しい雰囲気が漂っていたが、最後に挨拶に立った長老格の天沢氏が、「詩は言葉をドスンと落とせ」と大声で活を入れたのはさすがであった。言偏に寺と書くのが詩、でもその寺をよくみると、ド(土)スン(寸)ではないか、というわけで、天沢氏一流の諧謔がきいているのだ。

 そんな天沢氏が新詩集『アリス・アマテラス』を出した。実をいうと、前詩集『AVISION』の書評のなかで、私はつぎのように書いていた。「真の天沢的主題、それはカタストロフへの感覚である。破局、壊乱、無秩序。いたるところでそれらが潜勢し、詩人を待ち構えている。それだけではない。場合によってはむしろ詩人自身がそれらを待ち望み、呼び寄せさえするのである。夢をみれば夢のなかで。いや、天沢的主体にとって夢見は方法のすべてだから、生きることそれ自体がカタストロフと出会うということなのだ。その根底には、幼少期に詩人が体験した大陸からの敗走の記憶がある、などと伝記的事実を強調するような逸脱は控えよう。われわれの生や時代の根底もまた、危機的でないと誰がいえようか。そうしたなかで、そのいわば悪魔払いとしての諧謔の役割というものも、あらためて浮かび上がってくるであろう。」もちろん詩集『AVISION』も私のこの文章も、震災前に書かれたものだ。だからとって詩には予言的な機能がある、などということを言いたいわけではない。カタストロフへの感覚は天沢氏の詩業に一貫してあらわれるモチーフでありテーマであり、予言的機能を言われてはかえって迷惑であろう。今回の詩集にもその雰囲気は濃厚に感じられるが、それだけではなく、いやむしろそれを超えて、悪魔払いとしての諧謔が前面に打ち出され、その勢いはもうどうにもとまらないというふうだ。「そのとき弓張り島全体が/バリバリバリと鳴り出した/それ! 弓鳴り島だ!」

 諧謔ということでは、天沢氏と同世代の北川透も負けていない。新詩集『海の古文書』は、北川氏年来のモチーフといってよい、革命をめぐる精神の狂気にあらためて向き合った重厚な作品だが、そこで用いられている主たる方法はやはり諧謔である。冒頭いきなり狂言回しのように女性の語り手が登場し、三人の男(「一人は狂死/もうひとりはアルコール中毒死/第三の男は行方知れず」)について語り出すあたりは、ランボーの『地獄の季節』の、その「錯乱Ⅰ」と題された章──「地獄の夫」とのさんざんな生活を告白する「狂気の処女」の章を思わせる。いずれにしても、狂気に面と向かうには笑いをもってするほかなく、というか、狂気は笑いとポエジーとの三位一体のなかでしか意味をもたないということを、おそらく北川氏はよく心得ているのだ。そのうえで、みずからをも自己アイロニーとして処理するところに、この詩人の本質的に健康な精神が示されている。

 若手に眼を向けよう。2000年代になって登場した詩の書き手を「ゼロ年代詩人」と呼ぶことがある。かぎりなく小さな個として生きながら、なお世界とのヴィヴィッドなかかわりをもとめる立ち位置から、ガラパゴス的に特化した精細精妙な書法を繰り出す一群の若い詩人たち。手塚敦史もそのうちのひとりに数えられるが、このたびの『トンボ消息』(ふらんす堂)は、そうした特徴を保持しつつも、より高い次元へと一歩を踏み出した秀作である。

 形式的には、追い込みのように詩篇を扱って、全体でひとつのテクストを成すというスタイルだ。内容はといえば、トンボに仮託されたあるあえかな存在の消息を語り、あるいはそれ自身に語らせながら、なつかしい未知ともいうべき不思議な奥行きのある詩的世界が織り上げられている。

 まず、なぜなつかしいか。それはこの詩人の抒情をつむぐ言葉の質がどこか古風であり典雅であるからで、さながらあの北原白秋の『思ひ出』が21世紀版となってよみがえったかのようだ。

 では、それなのになぜ未知なのか。過去の想起に向けられた官能的な言葉の触手を主旋律に、4大(水、火、空気、土)をめぐる記述や、合わせ鏡のように映し合う自己=他者の声のオペラ的交響を絡ませながら、全体としてめざましい言葉の譜が現出しているからだ。恋歌の対位法ともいうべきそこを主体が自在に行き来するさまは、心底あたらしいと思える。「これはキイト、あれはウスバキ、ウスバカゲロウの翅。──誰が見ても僕は今、二人だろうな。きみと話をしている。真実繁茂しているきみの背後。」

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