俳句時評 第14回 松本てふこ

夏が来れば思い出す

今回は学生さんが夏休みということで夏休みめいた話をしたく思う。
全然時評じゃないじゃないか、と言われそうだが、
一応時評っぽいことも書いてみるつもりでいる。

この時期になると、句帖を片手にぶらぶらと旅をしていた学生時代を思い出す。
2002年の夏休み。大学3年生だった私は
龍谷大学の夏期講座「現代俳句講座」を受けるために
京都のホテルに泊まっていた。
就職活動の準備のため、と称してスーパーの弁当売り場のバイトを
その2週間くらい前に辞めていた。
龍谷大学のキャンパスは深草という駅が最寄りだった。
「くるり」というロックバンドの1stアルバムのブックレット写真の多くが
彼らの出身高校がある深草駅の周辺で撮られたと知り、
まあまあ熱心な彼らのファンだった私は
講義前の時間を使い、インスタントカメラ片手に散策した。
メンバーが裸踊りをしたという竹やぶを喜々としてレンズに収めたり、
深草駅の駅舎の周囲をぐるぐる歩き回ったり。
彼らの出身高校の中庭で写真を撮った時には、
さすがに「私は一体何をやっているんだろう」と思った。
同伴者はいない。立派なおひとり様であった。

「現代俳句講座」自体の記憶は、実はそれほど鮮明ではない。
とにかく、普段は句会で学ぶような現代俳句にまつわる事柄を
授業形式で知ることがとても新鮮で、
とにかくこれは面白い、と思ったことを
片っ端から板書していったように思う。
講義は全部で4日間。
2日目には宇治に吟行に出かけた。とにかく、暑かった。
全日、教室の窓から京都の美しい峰雲が見えた。
授業の後に講師陣の先生方に祇園のお店に連れて行って頂き、
鱧を生まれて初めて食べた。
先生方には「東京からよく来たね」と褒めて頂いたが、
写真撮って俳句詠んで美味しいもの食べて寝る、なんて
好きなことしかやらないでいられるとうきうきしていた私には
何故褒められているのかすら分からなかった。
講義で友達が出来たらいいな、と思っていたが
写真を撮ったり街をぶらつくのに忙しくて結局ひとりも出来なかった。
毎年11月に講座の同窓会のようなかたちで行われる吟行句会に参加し、
翌年も講座に後輩と一緒にもう一度参加し、
その後も吟行句会に毎年のように行く度に
少しずつ知り合いの元・受講生が出来ていった。
その中のひとりに、こんな女性がいた。
おかっぱだったり坊主だったり、年ごとに髪型が違う。
吟行句会にはいつもどこからともなく現れて、
すぱすぱとたばこを吸いながらいつの間にか句を作っている。
一人称に「俺」を使ったり、ちょっと破調だったり
不思議だが愛敬のある句を作る人だった。
句会でちょくちょくお互いの句を取ったので、
二次会で喋ったりして何となく仲良くなった。
連絡先を交換することはしなかったが、
講座の吟行句会に参加すれば会えるからまあいいか、と思っていた。
彼女が、御中虫である。

御中虫の第一句集『おまへの倫理崩すためなら何度(なんぼ)でも車椅子奪ふぜ』(財団法人 愛媛県文化振興財団)を先日、ようやく読んだ。

季語が無い夜空を埋める雲だった
歳時記は要らない目も手も無しで書け
台無しだ行く手を阻む巨大なこのくそいまいましい季語とか

「季語ってなんだろう、歳時記ってなんだろう。わからない。理由はないのだけれど、時々押さえがたい嫌悪感が押し寄せる。何でかな、ねえ、何で?」そんな彼女の言葉や問いが読者の私をぐさぐさと刺してくる。有季も無季も、破調もある句群の中にこういう句がぽんっと収録されている。句会でも、季語に関する疑問を講師陣に発する彼女の姿を何度か見た様に記憶している。いやしかし、彼女は闇雲に季語を憎んでいる訳ではない。

菜の花化して蝶となろうが俺は俺だ
結果より過程と滝に言へるのか
枯野かっこいいぜ俺はこんなに不幸だぜ

季語と自己のどうしようもない平行線。季語の時間の悠久性と、こんなにも刹那的に生きるしかない「私」の孤独。季語は「私」の孤独を救わない、癒さない。だとしたら私にとって季語って何の意味があるんだろう。「ねえちょっと、季語と私、全然関係ないんだけど。出来ればもっと近づきたいんだけど…でもやっぱダメみたい」という叫びと居直りが込められた上のような句が、一方である。

じきに死ぬくらげをどりながら上陸 
颱風の問ひに窓開けて答へる
ほらこれが人間の町だよ月よ
グラビアにじじいが葡萄もって微笑むのが笑える

そうかと思うと、季語に喋りかけたり、季語そのものになってみたり、季語のある風景をまるごと嘲笑してみたり。彼女は全力で季語をかまっている。時にコミカルに、時にメルヘンチックに。その素振りは時にひどく大仰で滑稽に映る。笑われることを彼女は恐れていない。ただただ、おもちゃで一心に遊ぶ子供の様に、季語を見つめて、季語に触れて、季語を感じている。

夏の終わりに終わりはないあなたが好きだ

この句を読むたび、笑えるほど暑かった2002年の京都の夏を思い出す。それと同時に今年の夏でも昔の夏でもない、まるっきり架空の晩夏が私の心に具体性を持って現れでる。もしかしたら過ごしたかもしれない夏、過ごしたかったけどかなわなかった夏、できればごめん被りたい夏、そういったものが思い浮かんで、どうにも感傷的になってしまう一句だ。

たっぷり夏休みを取る学生さんも、悪いことをしているわけでもないのに申し訳なさそうに休みを取らざるを得ない社会人の皆さんも、どうか素晴らしい夏休みを過ごされますように。

 
 

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