俳句たまねぎ
「継続的に発生する個人の情念が作品から抜け落ちていて」「モノがゴロリとある感覚」を、私は「俳句性」と考える。これは今「具体」を例に挙げたとおり、俳句だけの問題ではなく、さまざまな分野で発揮されうる感覚なのである。
(四ツ谷龍「シンポジウム「俳句にとって「写生」とは」をめぐって」『週刊俳句』第257号 2012年3月25日)
有季定型のみならず自由律や無季も含めた「俳句らしさ」とは何でしょうか。それは定型でも季題でも切れ字でもなく、たんに「短さ」というしかないのではないでしょうか。
(岸本直毅「有季定型に関する実験(わたしにとって「有季定型」とは 8)」『翔臨』第73号 2012年3月)
と、最近目についた「俳句性(俳句らしさ)」についての発言をふたつ並べてみました。四ツ谷氏は「モノがゴロリとある感覚」を「俳句性」、岸本氏は「短さ」を「俳句らしさ」(≒俳句性、でよいと思うのですが…)と見ているわけです。
お二人の意見も違いますし、その意見に対して、さまざまな異論が出るだろうことも明らかだと思います。が、それはさておき、ここで私が興味をもつのは、「モノがゴロリとある感覚」にしろ「短さ」にしろ、俳句に限定される特性ではないというところ。「俳句性」なるものは俳句という現象からあれこれ貼りついている飾り(?)をとっていった核に残るもの、ということなのでしょうけれど、その核にまで至るとそれは俳句とは別のものにも見出せるものだった、と。
この流れを逆にたどっていけば、俳句というものを成り立たせているのものは、周りについている諸々の飾り(有季定型、とか、季語、とか、作家性、とか)なんだろうなあ、とも思えてくるわけで、結局、俳句についてはなんだか、何もわからないという感じになってきます。少なくとも、俳句という「ジャンル」については、むき出しの核だけでは成立しないものなのでしょう。まあ、当たり前といえば当たり前か。
でも、「俳句性」とか「俳句らしさ」って言ってしまうと、「俳句においてしか成立しないナニか」なり、「コレさえあれば俳句が出来るモノ」という気もしちゃう、のは、アサハカでしょうかね?
岸本氏の論は上の引用部分が中心ではなく、「有季定型」は俳人の素顔を隠す「仮面」のようなものだ、という点であることをおことわりしておきます。能において仮面をかけて「幽霊や神霊」が現れる、そのように俳句にも「有季定型」の「仮面」をかぶることで他なるもの、異なるものが現れる、ということのようです。
ここまで読むと、全体の論としては、「継続的に発生する個人の情念が作品から抜け落ちていて」「モノがゴロリとある感覚」を「俳句性」とする四ツ谷氏の見解ともたぶんに重なってきますね。岸本氏は主に創作の過程から、四ツ谷氏は作品の結果(としての効果)から語っているというだけで・・・。