俳句時評 第51回 山田耕司

<やっかいだから面白い>という姿勢について

このように暮らしやすい環境のなかで、知らないあいだに、自分たち自身がとんでもなく無能力になっているということには、なかなか気づきません。

鷲田 清一「支えあうことの意味」より『14才の世渡り術 特別授業 3・11 君たちはどう生きるか』

湊 圭史さんの「俳句時評 第50回(詩客 2012年 05月 04日投稿/つまり先週の掲載分)」を興味深く拝読した。

川柳誌『MANO』を紹介している。

川柳にしろ、落語にしろ、説明ができるかどうかは別として、読み終え(話し終え)たところで、すとんと落ちるかどうかが重要である。さらに言えば、すとんと落ちて、しかも説明しようとするとその面白さが逃げてゆくようなものが上質なのだ。こうした句を紹介しようというのは、評者にとってはじつに厄介である。

筒井祥文を対象とした小池正博氏の批評を取り上げながらの一文。

『MANO』そのものが面白いこともあるが、それに向かい合う湊さんの文がいい。なるほど。実にわかりやすい。面白い。

川柳とは、さて、どのようなものなのかを説明しようにも、それはなかなかムズカシイ。いや、俳句とはなにか、ということだって語りきれない。実のところ、短詩型ということのシバリを踏まえた上で、さて、ソコから先をどう分別したものか、それはやっかいなことなのである。

やっかいなこととどう向かい合うか。

A やっかいだから、かかわらないでおく

B やっかいだけど、白黒つけなくちゃならないので、境界線にこだわる

C やっかいだなぁといって面白がる

あらかじめ「別のものと思い定めているので、やっかいにすら感じない」という態度を除いて、こんな姿勢に大別してみる。

Aは、平常運転に近い姿。たいていは、みずからのかかわるスタイルに対して「それはいったいどういうことなのか」という視点を持つことすら無く、ただ、気持ちの良いことを繰り返してしまいかねない。

そこで、B。かなり積極的にみずからのありように対して関心をもつ姿勢。客体化し、分析することで、対象の本質に迫ることができるとする、おおむね科学的といってもよい考え方。学術的であるし、なんといっても前向きな感じがする。これは俳句と川柳の区分についてのみ適応するわけではない。前衛俳句、新興俳句、伝統俳句……何らかの冠をいただいている形式名にはそれぞれの境域があって、それについて区分をしてみせることや、世代間に差異があるということを前提にその世代の特徴を取りまとめてみることなども含まれていよう。

この考え方が面倒なのは、ともあれ、世界は分類可能であり、傾向によって整理したり、再構成することで、世界全体を把握することができると事前に決めていそうなところにある。こうした姿勢を停止してしまったら、私たちの世界はたちまち混沌として、すくなくとも批評の言葉は「漠然とした印象」を述べることを繰り返すことになってしまう可能性がある。とはいえ、分類、整理、再構築という世界把握のサイクルにおいて、詩歌の魅力を包括的に批評することができるのか、それはそれで疑わしい。

松岡正剛氏の言葉を借りよう。彼は、部分のひとつひとつを記述してそれらの部分を再構築してシステムを形成させる「ニュートン=デカルト的な機械論的世界観(メカニック)」と、部分単位ではきっちり分けられない印象のようなものをとらえる「有機的世界観(オーガニック)」のふたつに世界把握の傾向を示した上で、こう述べる……

「私はメカニックな見方にはもっとオーガニックな見方を加え、オーガニックな見方だけでできている考え方には、それなりのメカニズムを入れる必要があると思います。特に生命感あふれるものについては、できるだけオーガニックな目をもちたいものですね。」(『世界と日本の見方』より)。

たとえば形式のことを述べるに際して、まずはAのごとき日常性を反省し、Bにおける例示と分析を繰り返してしまうとしたら、それは、メカニックな姿勢を重んじた上で、「理論的に有意義」な点を作品に見届けようとしたり「理論的に有意義な」作品をこしらえてしまうような営みを創作とするスタイルになってしまうかもしれない。こうしたスタイルが生まれるのは、「心がこもっている」ということばかりを重んじ、かつ、作品を言葉として分析することも無いままに作品そのもの以外の側面で評価をしてしまいがちな批評のスタイルがあることへの反動かもしれない。これはオーガニックというよりは、むやみに情緒的とでも言うべき状態なのだろうが。

ともあれ、ひとつの境域と別の境域とのかかわりあいの場においては、私たちの批評はその性質を露見させがちであるように思われるのであり、奇しくも「俳句時評」における湊さんの川柳評に、メカニックとオーガニックがほどよく融合している視線を感じるところがあり、それでことさら面白く拝読したのであった。

川柳と俳句の境界は、やっかいだからこそ面白いのかもしれない。

四国・高知で出版されている俳句同人誌『蝶』(代表 味元昭次) 第195号 (平成24年5月10日発行/つまり最新刊)の小特集は「俳句と川柳」。<柳人に聞く“貴方にとって俳句とは”>ということで、回答者は、樋口由紀子、小笠原望、古谷恭一、小野善江、清水かおり、西川富恵の各氏。<俳人に聞く“貴方にとって川柳とは”>、回答者は、増田まさみ、たむらちせい、森武司、竹村脩、森本青三呂、柳井眞路、味元昭次の各氏。

「俳句は長いあいだ、挨拶もしたことがないマンションに住む隣人だった。高知に帰ってから、本屋で俳句雑誌をめくって評論の確かさがうらやましかった。批評の少ない川柳とは比較にならないとよく思ったことだった。

俳句を身近に感じだしたのは、高知県短詩型文学賞の選考委員になってから、俳句の世界の人の応募作は、言葉の切れ、比喩、短詩としての巧みさは圧倒的であった。それは「蝶」に属する人たちだったから、俳句全般の人たちがみんなそうではないだろうが…。十七音字を一本道で完結する古典的な川柳のそれと比べると、新鮮さを感じた」(小笠原望「マンションの挨拶もしない隣人」より)

『蝶』誌において、川柳と俳句の特集を組んだいきさつは、小笠原望氏のこの文から汲み取れるだろう。

ともあれ、言葉も交わさない隣人ではあっても、上記の引用部分だけでも、境域に白黒つけるというよりは短詩としての包括の内側でこそ面白がりつつ、俳句と川柳の差異についてよどむことなく述べている。好企画であるし、掲載されている高知県短詩型文学賞受賞作品もあわせて、多くを紹介したいのだが、詳細は本誌をお読みいただきたいので割愛。

とはいうものの、実に明快な俳句批評をひとつここに掲載。こうした筆致の鋭さは筆者の力量によるものであることはいうまでもないのだけれど、それが柳人が俳句へ振り向けた時にたちあらわれる、つまり境域での「メカニックとオーガニックがほどよく融合している視線」が日ごろにまして露出しているのではないか、と思ったのだがいかがであろうか。

樋口由紀子氏は『MANO』のメンバーでもある。

無事ですと電話つながる夜の椿
しゃぼん玉見えぬ恐怖を子に残すな
避難大事恋も大事やチューリップ
春愁か怒りかマスクするばかり

昨年の角川俳句賞を受賞した永瀬十悟の「ふくしま」の作品である。このような俳句が大賞を受賞するようになったのだと思った。意味が強く前に出て、概念を扱っていて、季語がなければ川柳であると思った。もっとも季語があるから俳句だと言われそうだが、季語あるなし程度の、たったそれだけの操作で俳句は成立してしまうものなのだろうか。

永瀬は受賞の言葉で「季語を入れると現実の悲惨から遠いものになってしまう」と述べている。確かに季語によって意味性は薄められている。それは季語の役割なのだとしたら、それは俳句の限界を露呈したことにならないだろうか。

「俳句」の鼎談で井上弘美は「現実の重さと季語のせめぎ合い。しかも俳句はものが言えない上に、抑制しなければならないという中で、いかに表現するか、そういう中から生まれた50句であることがよくわかります」と「ふくしま」の大賞受賞に理解を示している。しかし、私にはどう読んでも「現実の重さと季語のせめぎ合い」には受賞句は読めなかった。

概念プラス季語の俳句はわりと楽に作ることができる。何よりもわかりやすい。ニーズに合うのだろうか、最近とみに目にするような気がする。俳句の派生商品展開の戦略なのかもしれない。「ふくしま」の受賞でよりそう思った。(樋口由紀子「柳人から見た俳句」より)

北海道で面白いことが始まったようす。

俳句集団【itak】旗揚げ。

【itak】とはアイヌ語で「言葉」の意味。北海道の俳句状況を俳句そのものの力でもっと面白いものにしようという集団のブログです。

ホームページの巻頭にはそう書かれている。

地域のことを地域の歴史や思いといったオーガニックなものに偏らせるのではなく、かといって分析や批評による世界の再構築といったものに終始する風情でもない、その心意気 =「俳句そのものの力で」「面白いものにしよう」ということなので、ともあれ注目。

ホームページはコチラ 俳句集団【itak】

たとえば、地域を限定することで、むしろ、境界における新鮮な批評性をよびさますことになるのかもしれない。

当サイト「詩客」は、スタートからまる1年。

さて、詩型の境界における「面白がり方」は、このサイトにおいて、どのような状況を迎えているか。

B やっかいだけど、白黒つけなくちゃならないので、境界線にこだわる

ここか。

C やっかいだなぁといって面白がる

あるいは、ここか。

さて、いかに。

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