なつかしい野原はみんなとおくから来たものたちでできていました やすたけまり
『ミドリツキノワ』(短歌研究社、2011年)より。
やすたけさんの歌はもういくつもの場所で取り上げられている。それほど、何か人を惹きつける魅力を持っているのだろう。ここでも、もう一度やすたけさんの歌を読んでみたいと思う。
「ナガミヒナゲシ」とは帰化植物の名前で、この一連に登場する数種の植物はみな帰化植物である。日本にある植物は約4000種で、そのなかの1200種は帰化植物だという。やすたけはここに歌の題材を定めた。
「ナガミヒナゲシ」のことを少し続ける。
ナガミヒナゲシは名の通りひなげしの一種で、1961年に世田谷区で発見されて以来、徐々に生息域を拡げて、2007年には東北以南のほぼ全国に生息することが明らかとなった。ロゼットという小さな葉の状態で越冬し、種子は一個の実から非常に小さい15万個の種子ができると言われていて、車のタイヤの溝などについて運ばれていく。
こうした事実に精密に取材した歌を引く。
ある年の数字がならぶ「ナガミヒナゲシ 発見」と検索すれば
ちいさくてかるいからだはきづかれずきずつけられず運ばれてゆく
六月の信号待ちのトラックの濡れたタイヤにはりつく未来
やすたけはナガミヒナゲシが発見された年に生まれている。外つ国からもたらされた植物は、外つ国に帰化した。生きていくのには、そうするしかなかった。やすたけ本人、もしくはここでの主体が眺めていたであろう野原は、実は「みんなとおくから来たものたちでできていました」。即ち、帰化植物でできた野だったのである。しかも帰化植物の多くが「他感作用(アレロパシー性)」という、他の植物を阻害する作用を持っているという。
やすたけはここで、ナガミヒナゲシその他、帰化植物を自分になぞらえた。
三首目、「きづかれずきずつけられず」とあるように、他者に気づかれないことは傷つかないことではあるが、同時に他者という存在を最大限に意識したからこそ、表出する感覚であろう。
自分を取り巻く世界への違和感は、生をうけた瞬間と平行するように始まっており、茂れば茂るほど、生きれば生きるほど、他者とうまくなじめない感じが強くなる。
存在の違和、日常の齟齬。それらがやすたけの作る歌のどこかに表出してきていて、詠むほどにときどきこの人は苦しさを抱いて生きてきた人なのかもしれない、と思う。