私の好きな詩人 第70回 - 征矢泰子 – タケイ・リエ

木がほしい

 詩を書いているひとにとって「詩を書く」行為は、心穏やかなるものであったろうか。いつだって私たちの一寸先は闇、だから今もこれからも幸せであるようにと祈るような気持ちだ。自分の気持ちくらい自由にしたい。規範意識に縛られることなく、どのように生きてもいい。詩のなかで私たちは自由だ。誰にも縛られることなく言葉遊びに惚けてもいい。ファンタジーに浸ってもいい。詩の世界はパラレルワールドだ。言葉の世界は別の時間軸を生きる道具だと考えてもいい。ドラえもんを待っていても、現れない。秘密道具は自分で準備する。密かに言葉の刃を研ぐことが誰かにとって、残酷であったとしても。

 征矢泰子の詩には、秘密と罪悪感が埋められている。詩の中に、花のなまえがたくさん出てくる。湿った甘い匂いをさせた花。高嶺の花のようだが、地面に降ろされている。華やかにうたいあげる詩の多くが、息継ぎできない濃密さを孕んでいる。短く鋭い行が並んでいて、そこに穏やかさは、ない。読みながら胸が詰まってくる。私のうしろに立っている人の気配がある。共犯という言葉を思い出す。サルビアの真紅よりも、もっと真紅になる場所に辿り着くための道を、教えて欲しい。

その木の影はどこよりも涼しく
その木の枝はよじのぼってもぶらさがってもびくともしない
青臭い樹液が音をたてて流れる
生きている木がほしい

「木への賛歌」より

 詩の中でどれだけ自由奔放にふるまっても、詩がときどき現実に混じって、そこでの自由を味わい尽くしても、現実は寒い。そのひもじさにマッチを擦るように、詩ができる。征矢泰子の詩を読む時の孤独は嫌いではない。詩篇はどれも美しい。
 生涯、よりかかれる木を求め続けたであろう征矢泰子の孤独を指でなぞってみる。自分もまた、この木をずっと求め続けることを思うと、やはりいたましく思う。

タグ: None

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress