たたく 伊藤悠子
「わたしは門のそとに立ち とびらをたたいている」
歌詞を見ながら歌う
丘の林の木の間に隠れない木戸
夕暮れの町に紛れない鎧戸
叩いているのはわたしだと思って歌う
果てもなく絶え間もなく
扉
しかし叩いているのは
そのひとだという
どんな姿を纏いわたしを叩いていたのか
叩いているのか
だれかれを思う
しかし
だれかれを思うことも
扉を叩くこと
扉を叩いているのは
わたしではないことだけを思うだけで
よい
冬の空を見ている
詩集「道を 小道を」 ふらんす堂 2007年
「わたしは門のそとに立ち とびらをたたいている」。この歌詞は求道の意志を湛えていて、いかにも聖書の詩篇を基にした典礼聖歌らしいたたずまいだ。誰が何を求めて扉を叩いたのか。若い修道者が教えを乞いに来たのか、それとも旅人が一夜の宿を求めたのか。作者もまた、何かを求めて教会に来たのだろう。門を叩く人を自分のように思い、感情を移入して、歌っている。
だが、やがて気づく。門を叩いているのは神なのだと。キリスト教では、弱者は姿を変えたキリストなのだと教えるのである。「お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸してくれた。・・・(中略)・・・この最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25章)。どんな人の姿で、キリストは自分を訪れて来ていたのだろう。自分は心を尽くせただろうか。過去に出会った人々、今もかかわりあう人々を、自省をこめて思い浮かべる。
そして更なる悟りが生まれる。「しかし / だれかれを思うことも / 扉を叩くこと」。人を思い出すこと、それも求めることなのだと。扉を叩いているのは、「わたし」だけではない、人は皆求め、求められる存在なのだと。
わたしを神が叩いている、そう思うだけでよい、という作者の静かな心が、冬の空に昇っていく。