乳房のある日々 井谷泰彦
かつては
結婚とは結婚式のことで
いまでは
結婚とは乳房を吸うことになってしまっていた
セックスをする日もしない日も
美智子さんはドライヤーで私の髪の毛を乾かしてくれる
風呂場の脱衣所に置かれた椅子に座った私の目の前には
美智子さんの乳房がある
まいにち美智子さんのブラを外して乳房に顔を押し付け乳首を吸う
そういえばずっと前
私はまいにち母の乳房を吸っていて
オチンチンは大きくならなかったが手足バラ肉もも肉胸肉は大きく膨らんだ
そして五十九年後の今またまいにち乳房を吸うようになったのだが
元気のない夜の私は何を大きくさせているのだろうか
乳房を吸うことにはじまって乳房を吸うことに終わる一生
乳房を吸っていなかった五十九年間というのは一体何だったのだろう
五十九年前は乳房を吸うことが食事をすることであり
安らぐことであり、祈ることでもあったと人から聞いて知っているのだが
いまでは焼きたてのパンを齧ることや祈ること
絵を見たり文章を書くことがすべて乳房を吸っていることと同じだとおもう
乳房は入眠のための欠かせない肉枕であるが
乳房は首に巻きついてきて私を締め付ける凶器にもなる
乳房は私をいきなり平手打ちをくらわせ
乳房は蛇を挟み込んで硬直させる
獰猛な吸引力をもっている
生まれてはじめて付き合ったひとは普通のBカップだったと思う
その次が貧乳、その次の次も貧乳、そして
美智子さんは見事なEカップを誇らしげにブルンブルンさせて
若い女性と若い草食系男子しかいない女性下着売り場の着替え室に
雑食系中高年の私を連れ込んで
ブラの試着を始める
美智子さんが「うんっ」と乳房に力を込めて全身を膨らませると
か細いブラの紐が「パチン」と引きちぎれ、カラフルな布が宙に弾け飛ぶ
二枚目のブラの紐も三枚目の紐も
「うんっ」「パチン」
「うんっ」「パチン」
黒いブラの紐もベージュのブラの紐も
つぎつぎに弾けて引き裂かれ
布の断片が下着ショップに舞っていく
「やめて下さい」と下着ショップの店員たちは
宙に舞った色とりどりの布の断片を追いかけながら言う横で
「ダメよダメダメ」と
雑食系中高年の私は雑巾のように身体を捩りながら
くねくねする