四十二番 恋の初日の出
左勝
初日昇りやすいやうにと抱擁解く 山﨑十生
右
まづ初日つぎに魔羅にぞ
左句は新刊の『恋句(れんく)』(破殻出版)から。この作者の第七句集である。一方、右句は、九月に出た『恋々(れんれん)』(ふらんす堂)所収。こちらは第一句集とのことだ。両句集とも、恋・性愛の句を選抜して編集したところからこれらの書名となった。加えて、このコーナーでこれまでにも何度かあったが、またしても二人の作者の生年が同じである。なんなのであろうか。
恋や性愛に特化した句集というと珍しいようだが、こうしてみると人間同じようなことを考えるものだなあ、との感慨がやってくるのはどうしようもない。ちなみに『恋句』の「あとがき」には、〈あくまで普遍的な「恋」を俳句形式で脚色しただけのことである〉との断わりがある。また、『恋々』に作者の現在の師である矢島渚男が寄せた序文には、〈氏は礼節ある生真面目な男である。そうした人間の一途さがエロスの世界の深淵を俳句表現から除外することを潔しとしなかったのではないか〉との一節がある。要するに、句に詠まれた内容は作者の実体験ではありませんよ、と念を押したいらしい。両著ともひたすら、中高年男子が夢見たファンタジーとして読めばよろしい(読んで欲しい)、ということであろう。
同じようなことを考えるものだなあと書いたとはいえ、テイストにはかなり違いがある。山﨑の恋はなんというか、全体に純情可憐な感じ。
息白し白きこと君には負けぬ
集中の佳句かと思うが、坪内稔典が〈高校生くらいの清純な恋をこの句の白い息に感じる〉と評しているのももっともだ。
手をつなぎ色なき風を分かちあふ
などもおぼこく、ピュアな印象を演出している。その傾向を裏切る句としては、
ゆふべ背に立てたる爪で蜜柑剥く
くらいしか見当たらないが、残念ながらこれは凡作。掲句も、高校生かどうかはともかく、いかにもトーンが若々しい。抱擁を解くことで初日が昇りやすくなる、逆にいえば抱擁が日の出を妨げる――との詩的虚構に導かれた、神話的なスケールの大きさが一句の眼目だろう。
清純派を演出するのが山﨑なら、大迫があえて演出するのは若くない男性(いわゆるおじさん)の卑俗さである。
すててこにすぐになつたる逢瀬かな
なんて詠んでいるが、今どきステテコを着用に及んでいる人というのはどのくらいいるのであろう。決して当節の恋をリアリズムで描出したわけではない。
香水の胸元だらしなく豊か
開陳されているのは女の胸という以上に、男性の視線のありようのようだ。この手の露悪的な句が多い中で、唯一、清純派ぶりを見せるのは、
空からは新しき雪ばかりかな
『恋々』という句集の中に置く限りでは、恋情の昂ぶりが自然への感受を鋭くしているさまを読み取れる。しかし、そんな文脈なしでも、発見のある佳句に違いない。さて、掲句であるが、こちらはもちろん句集全体の主流をなす露悪系の諧謔句。詩的な誇張の色が濃いが、山﨑の左句と異なり、純然たる虚構とは言い難く(魔羅に礼するのは、しようと思えば簡単にできる)、それでいて狙った面白さがやや見え透いている。左勝。
季語 左右とも初日(新年)
作者紹介
- 山﨑十生(やまざき・じゅっせい)
一九四七年生まれ。「紫」の関口比良男に師事。一九九九年、「紫」主宰を継承。
- 大迫弘昭(おおさこ・ひろあき)
一九四七年生まれ。「畦」「ランブル」を経て矢島渚男が主宰する「梟」に所属。