岩尾忍「0cal soul」
こういうものしか読みたくなくなるのだ。何も読めないのだ。他のものは何も。夜、露出した排水管に凭れるように身を寄せ、耳たぶを押しつけて通過する物音を聞く。画面を凝視する。液晶の、フィルタ一枚の絶対的「あっち」を。見えない、触れえない何らかの誤作動を(理解だけさせてくれ、無傷で)。しかしもう振り向きはしないが、また振り向いたとしても目視はできないのだが肩甲骨の下、
わかんないと思うんだ 脳がちがうから
その凹みの底、走った亀裂から今なお灰色の汚水が漏れ続けているんだと(このくらい言わせろよ。私の嘘なんだ)。十一時、それは臍まで。十二時、それは乳首まで。午前一時、それは唇まで。しかしあの音はもう聞こえない。あの懐かしい狂いきったアラームの音は。十九時間とか四十二時間とかのまあつまり個人的趣味的飢餓、その後にくしゃくしゃのアルミホイルが、
気がついたら 砂糖1キロとか
なくなってて
いや脳が、くしゃくしゃのアルミホイル、で、鳴るんだよね、光って、潮騒のさざめきのただなかで、っても傍目にはただ単に万年床の上で、ぼうっとしてあらぬ方に目をやって顔腫らしてたとえばパン一斤とか、そういうのを抱えて、
ゴミ。
というようなことだったとしても、もう今はそれについて語ることしかできない(からここは「こっち」なんだろう?)。あの眠さ、眠くなさ、あの指でひきちぎってゆく食パンの白い肉のあのやわらかさだとかなまぬるさだとかをこうして鮮明に思い出すことしかできないほどもう私は忘れ果てているのだが、しかし、鉤針は、
写りきらんかったw
本当はこの3倍くらい
あの鉤針はなくなっちゃいないんだ。衝動は。ああいうインチキをしたくなるようなさ、血の先いじくって、要は生きながらにして幅のない線でありたい。ってことの。不可能を千万回理性的に確かめたとしても、衝動は消すことができない。消すことができない。線の理念に先立って引かれた、千万回引かれていたあの泥上の凹み、非直線、非正円、太い指先が汚れながら記した、あれを消すことができない。
(後略)
(「kader0d」vol.6 所収、2011年9月)
「kader0d」(「カデロート」と発音する、たぶん)という詩誌の6号に掲載されている岩尾忍さんの作品の前半部分です。
同誌に掲載の「大江麻衣「夜の水」について(また、離れて)」という批評がたいへんな力作で、この書き手に興味を持ちました。
原文は縦書きで、散文形式の文の間の、字下げした短い行のみゴシック体の横書きで表記されています。
ですから、ここと誌面上とでは幾分違った印象を受けるかもしれません。
「こういうものしか読みたくなくなるのだ。」という指示代名詞を含む一文から始まる冒頭が、この詩に接する態度を強く規定します。
「こういうもの」とはなんでしょう。
明示されない「こういうもの」の正体を探し求めつつ、読み進めることになります。
「画面を凝視する。液晶の、フィルタ一枚の絶対的「あっち」を。」とあるから、なんらかのネット上の文章を指しているのだろうかと想像します。
字下げされた行はそこからの引用でしょうか。
「写りきらんかったw」という表記が、その仮説を後押しします。
後半まで読み進めると、また別の解答の可能性にも思い至るのですが、それは措くとして、ここで確かなのは、「何も読めないのだ。他のものは何も。」という身体の状態が記されているという点です。
そして「読む」という行為に限らず、特定の種類の何かにしか意識を指し向けられない「他のものは何も」状態というのは、この詩の中に幾度も書き込まれていることがわかります。
「しかしあの音はもう聞こえない。あの懐かしい狂いきったアラームの音は。」
「もう今はそれについて語ることしかできない」
「あの眠さ、眠くなさ、あの指でひきちぎってゆく食パンの白い肉のあのやわらかさだとかなまぬるさだとかをこうして鮮明に思い出すことしかできない」
「他のものは何も。」
この詩の中でなされているのは、不健康で、惨めで、そしてきっと危険かもしれないその状態を、書きつけることで外部化していく試みです。