日めくり詩歌 短歌 斎藤寛 (2011/12/28)

哺乳類の最醜のもの二足歩行して美しき奇蹄獣を曳きゆく   酒井佑子

『矩形の空』(砂子屋書房刊、2006年)より。

酒井さんには、この『矩形の空』に先立って、『地上』(不識書院刊、1987年)『流連』(砂子屋書房刊、1992年)の2冊の歌集があるが、どちらも「佐々木靖子」のネームによる作品である。「酒井佑子」のネームに変えられたいきさつについては、『矩形の空』が第3回葛原妙子賞を受賞した際の「朝日」の記事でもふれられているが、新たな出発を期しての新たなネームだったのだという。

この『矩形の空』の中で、読者にとって最も印象深いのは、作者が体験した癌という病いの兆しからその完癒に至るまでが詠まれているくだりかも知れない。

姫御前(ひめごぜ)のやうに起居(たちゐ)して身のうちの痛みを聴きてをればおもしろ
エコー画面に叢雲のごとき象(かたち)見えあるあるある医師とわれと喜ぶ
抱き合ふばかり矩形の空と寝てひきあけ深き青潭に落つ
睫毛失せてボタン穴状になれる眼を朝朝ひらき楽しきごとし
美しき青むらさきの痣出づる血小板減少の朝をたのしむ

歌集タイトルの「矩形の空」は上記3首目より。病室から唯一望むことのできる外界である。すらすらと読み進むのは難しいくだりだが、それでも、「おもしろ」「喜ぶ」等々の語句はただ強がりで言われているわけではない、ということがおのずと伝わってきて、かくもあられけるよ、という読後感が残る。それは、酒井さんが、前回(12月23日)のこの欄でご紹介した滝沢亘さんがこだわった「平等」というような人界の概念には拠らずに、むしろ、われもまたこの地上に生きるあまたのものたちのはしくれである、という存在感覚をもって生きて来られた方だったからなのではないか、というふうに思われてくる。

「犬のひとり歩きはいけません」と大看板ひとり歩きの犬ぞ恋ほしき
烏あるく互ひ違ひに足踏みて歩くゆゑ涙出でてわがをり
馬に馬の分別あるを見てをればかろがろとわれを過ぎて行きけり

上記1首目、この看板はあちこちにあるようで、この歌集を読んだ何人ものひとが実際にそれを見て笑ったことがあるが、「ひとり歩きの犬ぞ恋ほしき」とまでは思い至らなかった、と言う。僕もまたしかりであった。2首目、昨今はどちらかと言えば嫌われ者にされがちな烏だが、酒井さんにとっては親しい隣人である。『矩形の空』には烏の歌が17首収められているがこれはその2首目に当たる歌だ。たしかに烏はかなしくも「哺乳類の最醜のもの」としてのヒトと同様に二足歩行風に歩く。3首目の馬は、おそらく競馬場でのシーンだろう。酒井さんは競馬を愛するひとでもあるのだが、それはすなわち、ギャンブルとしての競馬ではなく、自然界の一員としての馬という生命体を愛する、ということなのである。

されば、掲出歌のように、どんなにヒトが偉そうに馬を曳いていたとしても、ヒトはしょせん「哺乳類の最醜のもの」であり、馬は「美しき奇蹄獣」なのである。いわゆる思想の圏域へ翻訳して言えば、ここには近代の人間中心主義に対する明白な「ノン!」の表明がある。

しかし、歌をただにそうした翻訳態によってのみ読んでしまってはその味わいが薄れてしまうだろう。思想は、いわゆる思想の圏域に閉じられて針金のようにあるのではなく、味わい深い一首のただなかにこそ存しているのだ。それに加えて、酒井さんの歌は、その韻律において、「五・七・五・七・七」を母体としながらも相当に自在に詠まれている、という印象が強い。言葉と言葉の連接が生み出すうねり、あるいは撓り、というようなことを感じる作品が多い。こうした調べはもとより一朝一夕に成るものではないのだろうと思い、そしてこうしたところにこそ、単なる意味からははみ出すものとしての詩歌の言葉の価値が存しているのだろう、と思うのである。

【付記】この欄の斎藤の担当は今回までです。お読みくださいました皆さま、ありがとうございました。これからもどうぞ「詩客」をご愛読くださいますように。

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