六十一番 電光掲示
左持
死者流るる電光掲示板に雪 髙勢祥子
右
私の感情は電光掲示を流れてゆく 前島篤志
右句は全く主観的な表現をとると見え、左句はいちおう視覚描写型の句なのであるが、実質的には両者とも「私の感情」をかなり率直に打ち出していると言えよう。左句はその感情を「雪」という季語に託しており、これは俳句の常道に違いないとはいえ、結果的に右句と比べて、表現が通俗的になっているように思う。右句は主観的なようでいて、「私の感情」に対してじつはより客観的にふるまっており、ためらいの無いその表現はセンチメンタルでありながら同時に力強い。
しからば右勝ちでよさそうなところ、そうしないのは左句の「死者流るる」という怪我の功名的な措辞の効果による。なぜ怪我の功名かというと、左句は視覚描写に言葉の水準を合わせている以上、本来ここは「死者数流るる」とか「死者の名流るる」とすべきはずなのである。おそらく字余りの度合いを軽減する(このケースでは無用と思える)配慮から現状の形になったと思われ、結果的に上の句と中七下五で表現がやや肉離れしている感じが残る。にもかかわらず、ともかく電光掲示板を死者が流れると記述されてしまったがために、そこに鮮烈なイメージが発生してしまった。光の文字としての死者というイメージである。というわけで持。
ちなみに左句の作者は、昨年の角川俳句賞の選考で池田澄子から高く評価されていた。受賞にはいたらなかったものの、「週刊俳句」の落選展に出ていた「夕暮れの雨」五十句はとても面白かった。左句を収める句集は六年前のもので、全体に角川賞応募作より素朴な感じがするが、風俗的なスケッチや可憐な感覚性に引かれるものがあった。以下、興に入った句若干を引いておく。
立春のまな板に染むみどり色
薄氷に記号のような小枝透く
キャンバス地のバッグ何でも入れて秋
デニーズへようこそ秋の入り口に
黙々とティッシュ配るも月の下
満月は脂肪の塊かもしれず
西鶴忌新製品がどっと出て
日だまりを膝につくって冬が好き
季語 左=雪(冬)/右=無季
作者紹介
- 髙勢祥子(たかせ・さちこ)
一九七六年生まれ。実験的俳句集団「鬼」所属。掲句は、第一句集『頰づえ』(角川書店 二〇〇六年)より。
- 前島篤志(まえじま・あつし)
一九六九年生まれ。伝説の秘密俳句結社「俳句魂」の元メンバー。掲句は、『燿―「俳句空間」新鋭作家集Ⅱ』(弘栄堂書店 一九九三年)より。