六十八番 自然を詠む、人間を詠む(一)
左勝
無常観鍛へ二〇一一年が去る 矢島渚男
右
「短歌」誌の若手歌人の座談会「3.11以後、歌人は何を考えてきたか」が話題のようです。一方、「俳句」誌三月号の特集は「自然を詠む、人間を詠む」。高野ムツオ、小澤實両氏の対談もなかなかでしたが、「新作2句&アンケート22名! 俳句の未来に向けて」に真摯な句・文が見られるのに感銘しました。二句だけの新作注文というのは珍しいでしょうし、一般には句数が少ないからじっくり手をかけるかというとそうでもなくて、むしろ句数が少ない分テンションも下がってしまったりするもの。しかし今回はアンケートが
①この一年で心に残った一句
②震災以降、変わったこと、変わらなかったこと
③いま大切にしたい季語
④これから何を詠んでいきたいか
という四項目で、震災以後を問うものだっただけに、句の方も自ずから緊張感のある力作が多いように見受けられました。これから十余番は、この記事の「新作2句」をそのまま句合せに借りたいと思います。
長谷川櫂氏の『震災句集』が出たことで、震災詠についての議論が俄かに盛り上がりました。私も前々回の本欄で“殿堂入り”なんぞと良い加減なことを書きましたが、じつのところそう簡単に片付けられるものではないと思っています。なるほど当該句集に、
みちのくの山河慟哭初桜
空豆や東京電力罪深し
のような通俗的な標語のような句が入っているのは理解に苦しみます。一般読者に向けて万単位の部数を刷るという目標が、こういうベタなわかりやすさを要求したということなのでしょうか。しかし、一方、「一年後」と題された後記に見える
俳句で大震災をよむということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで眺めることにほかならない。それはときに非情なものとなるだろう。
という一節などは、それはそれで正確でもあれば正直でもある認識が示されているには違いありません。そのような“非情”さを、いまだ“悠然たる時間”がさほど流れてもいない時点で、このような形で公刊する必要はあるのかという疑問も湧かないではないですが、現在、ネット上(あるいは「里」誌など)で見られるくらいの批判を明察の長谷川氏が予想していないというのも信じ難いことではあります。氏は氏なりにリスクを取って、自分の今後の表現の道筋をつけようとしているのでしょう。
さて、長谷川氏ではなく矢島氏の句を見ねばならないのでした。矢島氏は、アンケート④に対して、
「自然を詠む、人間を詠む」というアンケートのテーマに関して言えば、「人間もまた自然の一部」という認識が大切なのだと思う。ひとりひとりの心の動き、世のありさま、世界の動乱でさえ「自然の一部」なのではないだろうか。
と述べていて、ことさら非情を言い立てる長谷川氏の言葉より穏当ではあるでしょうが、その実かなり似通ったことを言っているように思われます。長谷川氏や矢島氏の発言からは、俳句に血肉化されている中世隠者文学という出自の根深さを感じないわけにはゆきません。伝統などという言葉すら生易しい、これは日本人のひとつの典型的な思考と精神のパターンなのでしょう。
掲出両句は共にすぐれています。右句の「あしかび」は葦の若芽で、古事記・日本書紀の創世神話に出てくる国土・事物の生成を象徴する言葉。「こと始め」は正月準備の事始ですから、「震へ」は震災もさることながら、より直接的には二〇一一年歳晩の寒さによる震えを指していることになるでしょう。震災の年が終わりつつあることを心に刻みながら、新年に向けた準備を始めようとする。それが同時に、葦が芽吹く季節に起こった震災を新たな国づくりの始まりにしよう、という意味も帯びることになるというわけです。これもなかなかに“非情”な句かも知れませんね。
重層的な表現がなされ、洗練された右句に比べると、左句の詠みようはむしろ不器用で説明的にも思えますが、この「無常観鍛へ」という剥き出しの認識は魅力的です。震災後も自分は自分だ、何も変わっていないという人でも、無常観だけは否応なしに強化されてしまった一年だったのではないでしょうか。洗練より無骨をよしとして、左勝。
季語 左=年の暮(冬)/右=事始(冬)
作者紹介
- 矢島渚男(やじま・なぎさお)
一九三五年生まれ。「梟」主宰。句集多数。