七十番 自然を詠む、人間を詠む(三)
左勝
言葉白く石なほ白く陽炎や 田中亜美
右
連翹に此岸まぶしきところかな 田中亜美
田中亜美氏はアンケートに、
大震災は非常にショックな出来事であったが、その後の原発事故への一連の対応、とりわけ、そこに無根拠に行使される、当事者意識の薄い言葉や、それとは逆の過剰に情緒的な美辞麗句……に、なにかいたたまれないような思いを感じてならなかった。
と回答し、言葉が腐った茸のように口の中で崩れてしまうという、ホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』の一節を引用しています。『チャンドス卿の手紙』は、架空の文人フィリップ・チャンドス卿が、フランシス・ベーコンに宛てて、自らが詩文の筆を折った理由を述べる書簡体小説であり、言葉による現実の分節化に対する不信や乖離感が主題となっています。当コーナーの前々回に登場した矢島渚男氏は、やはりアンケートに、
俳句は現実からの詩であり、状況からの詩であることを止めたときに衰退する。
と記していて、これはこれで正当な見識ながら、現実・状況から詩に向かって出発すべき言葉が口の中で腐り、崩れてしまうのだと訴えるチャンドス卿=田中亜美に比べると、いささか牧歌的な印象は免れません。
左右の掲句は、言葉の死と再生をまさぐる田中氏の意識を形象化したものと読めそうです。左句は、伊東静雄の詩「八月の石にすがりて」(*)や蕪村の
柳散(ちり)清水涸れ石処々(ところどころ)
などを想起させます。本歌取りではないにせよ、それらと地下茎で繋がった表現のように思います。
右句は表向き、彼の世である彼岸に対して此の世である此岸のまぶしさを言っているようでいて、一句の言葉はむしろ彼岸と此岸の弁別さえなしかねているような、頼りない、のっぺりした浮遊感にまとわりつかれています。そう、それはチャンドス卿が次のように記している、“此岸”の生活の一情景ではないでしょうか――〈それ以来、あなたには理解していただけないような生活をおくっています。精神も思考もなく日々が流れてゆきます。もちろん、隣人や親戚や、この王国に住むほとんどの地主貴族とほぼ変りのない生活ですが。〉
どちらも興趣の深い句ですが、「石なほ白く」のワンフレーズで、言葉と現実=石のずれを的確に言いとめた左句が一段勝っているように思います。左勝。
季語 左=陽炎(春)/連翹(春)
(*)八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命(さだめ)を知りしのち、
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ。
運命? さなり、
あゝわれら自ら孤寂(こせき)なる発光体なり!
白き外部世界なり。
(後略)
作者紹介
- 田中亜美(たなか・あみ)
一九七〇年生まれ。「海程」所属。