日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗 (2012/03/07)

ニワトリとわたしのあいだにある網は書かなくていい? まようパレット
やすたけまり

「すなば・パレット・植物図鑑」『ミドリツキノワ』

あれは保育所に通っていたころのことだったと思います。自分の手のひらの絵をクレヨンで描くように言われ、わたしは血まみれの手をかいてしまいました。

グロテスクな表現をしたかったのではありません。手のひらの皺や線を全部描写したかっただけなのです。

でもそれを明晰に描き出すだけの力はなかった。結果的に赤い線が縦横無尽に引かれ、切り傷だらけの出血多量の絵が生まれてしまった。子どもらしい絵というのは、もっとディフォルメされた絵で、望まれていたのはきっとそんな絵だったでしょう。現に周りの子の描く絵はそのようなものでした。

わたしも「ディフォルメすればいいんだな」ということは頭では分かっていたと思います。でもそれが受け入れがたかった。

①「子どもらしい」という言葉自体が子どもをディフォルメした捉え方である。
②「子どもらしい絵」が描ける子どもというのは、自分をディフォルメして「子ども」としてふるまうことができる子どもである。
③自分はそんな気持ち悪いことはしたくない。

という風に考えていたような気がします。もちろんこんな風に言語化はできていなかったけど、その「気持ち悪い」という感情は確かに血まみれの手と結びついて思い出すことができます。

ダブルバインド。現実の要請はそこにある網を書け、と言う。けれど「現実」の要請はそこにある網を書くな、と言う。

これはおそらく作者による自身の回想か、それを装ったものでしょう。

四句目まで子どもの言葉で作られているが、たぶん作者は今なお「まようパレット」を抱えているのだ。(略)「網」を無視してしまえば楽に生きられるかもしれないが、彼女は「網」を見つめ続ける。その「幼ごころ」は思いのほか強靭である。

栞で松村由利子さんは以上のように書いています。一人の個として、「現実」=社会への違和を提示する。短歌に限らず、様々な表現媒体においてみられる普遍的な主題です。

しかしこの作者は本当に迷っているのでしょうか。確かに「網を無視すれば楽になる」という安易な社会化を受けているわけではないようです。けれど、まようパレットと言う時、まなざしは状況を客体化しているように思えます。

むしろそこにあるのは「迷いの肯定」というような態度ではないでしょうか。

迷う気持ちそれ自体をやわらかく受け止め、その気持ちを「それで正しいんだよ」と肯定する。けしてこれは「こども」の態度ではありません。

ここにあるのは「おとなのまなざし」です。「迷い」を抱くこどもではありません。かつて「迷い」を抱いており、その「迷い」をいつしか忘れてしまったおとな。けれどもう一度「迷い」を思い出し、「迷い」へ共感を示し、あるいは「迷い」を取り戻そうとするおとなの姿。

自分なりに言葉を整理整頓して、混乱を押し殺すことによって、世界を暫定的に固めてしまった。そのまま今日まで生きてきたのだ。しかし、それは同時に世界を失うことでもあったんじゃないか。

『ミドリツキノワ』を読むと、瑞々しい混乱が甦る。と同時に、失った世界が回復するのを感じる。

穂村さんの栞の文章は、その意味では的を射ていると言えます。けれど的を射すぎている。混乱に立ち返ろうとする作者は、しかし何ら混乱していないのです。

ブランコの板を抱えて目をとじて(嵐の海で船は壊れて)
二学年上の算数プリントを拾う 暗号としてうずめる
やまのこのはこぞうというだいめいはひらがなすぎてわからなかった

そこでは世界はまったくもって整理整頓されている。

「ブランコの板=壊れた船」「算数プリント=暗号」という明確な図式。効果的なひらがなの使用(技巧が見える)。

あくまでも、このこどもの世界はおとなによってまなざされたこどもの世界であり、混乱は混乱としてあるのではなく、ディフォルメされたわかりやすい混乱として提示されている。ニワトリの歌も四句目までは切なる問いかけかも知れないが、結句があることで構造的な歌となっています。そのことで確かに収まりはよくなっていて、作品として安心して鑑賞できるようになってはいます。

けれどそれは、「網」を見ないふりして描いたニワトリの絵に、どこか似たところがあるように思えてなりません。

タグ: ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress