シジミ 石垣りん
夜中に目をさました。
ゆうべ買ったシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。
「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクッタヤル」
鬼ババの笑いを
私は笑った。
それから先は
うっすらと口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかった。
敗戦のとき、石垣りんは25歳。当時の戦争の時代が、そのまま彼女の青春の時期と重なっている。高等小学校を卒業して、就職し、学歴のない銀行員として定年まで勤め上げている。庶民として場所が、石垣りんの作家の基本的な視座であることはよく指摘されるところだ。
「シジミ」も例外ではない。庶民の食卓に欠かせないシジミ。決して高価な食材ではないシジミ。それを作者は、共感と冷徹な眼差しで見つめている。共感というのは、一連目に「口をあけて生きていた」と、シジミを命あるものとしてわざわざ描いていることからも分かるし、最終連で「私」もシジミのように「うっすら口をあけて」眠ることから、両者が重ねられていることが分かる。「私」もシジミと同じ、喰われるばかりの〈生〉を生きるよりほかにないと言うのだ。
気になるのは、「ドレモコレモ/ミンナクッテヤル」だけがカタカナになっていること。人から「鬼ババ」への変身の様子を表したかったのか。それとも、演戯的な要素が作者を支配していたのか。私はどちらも認めつつ、前者に比重を置きたい。以前、歴史家の網野善彦が、中世ではカタカナは異界への誓文や異界からの託宣に使われる文字だったというような指摘をしていた。この詩を書いてるとき、件の二行のところに差し掛かり、石垣りんは何がしか自身の中の〈鬼〉を意識して、異界の言葉のカタカナを記してしまったのではないだろうか。しかし、恐ろしい〈鬼〉すらも、ここでは冷徹に見つめられている。シジミも「私」も〈鬼〉も一様に冷徹に非情緒的に描写されていくとき、なにかしら生きるものの滑稽さともの悲しさと言うべきものが浮かび上がってくる。