日めくり詩歌 短歌 高木佳子 (2012/04/23)

 飛花はげし 春あかるきにわが位置をたしかめむとて樹下を歩めば   柚木圭也

『心音(ノイズ)』(本阿弥書店、2008年)より。

柚木はこの歌集をもって第15回日本歌人クラブ新人賞を受賞している。彼は総合誌の新人賞を受賞し、その後歌集を出して、さらに、という風にアグレッシブにキャリアを重ねるタイプではなく、結社にいて、良質な歌を着実に発信してゆくタイプのようだ。もちろん結社内では早くから非常に有望視されていたことが、小池光の寄せた栞文からも伝わってくる。

敬愛してやまなかった高瀬一誌の死によって作歌を一時中断し、忽然と消え、またある日、忽然と戻ってきた。あるいは自分の病によって、生への希求が変質したのかもしれない。こうした経緯は柚木のもともとの繊細な詠風に、突きぬけたような独特な乾きのある明るさをもたらしているようにみえる。

掲げた歌を見よう。「飛花」は春の季語。季語であり、漢語を巧みに使うことによって急激な鋭さが表出される。また、初句切れによって、散りおちる花びらの情景が読者に示され、二句以後は作者の具体が示されいく。

作者は「わが位置をたしかめむ」として、歩いているのである。確かめなければいけない自分の位置は、同時にその位置づけが不安定であることを暗示する。

この歌は「聖母の乳」という一連の中に収められているが「聖母の乳」はドイツでのポピュラーな白ワインの名前で、その名前と同じ教会の葡萄園で取れたぶどうを使って修道僧たちが作っていたという静謐なエピソードを含んだものだ。そのワインをあけるという歌から始まって、彼の存在の不確かさを追求するような歌を収めている。あるいは聖母の乳はワインのそれではなく、イエスを産んだ母マリアをも読む者に想起させる。

 
〝圭也〟とふ名付けられしより絶え間なく日々人間として生かされてゐる

ありふれてセピアににじむ写真にて幼子を抱く〝父〟と呼ぶもの

からす瓜冬を遺りてひとつ身の置きどころなし晩年の子の

一首目、名付けられることはそれはその人をその人として決定づけてゆく行為だ。誕生してから繰り返しその名前で呼ばれることによって、その人はその名前にふさわしい人になっていく。「それ」はもともと「それ」であるのに、名付けというフレームによってその人が形作られてゆくのだ。

二首目、「父」と呼ぶ人に抱かれている写真、まぎれもなく子である作者はその古びた写真を見つめている。父と子の関係性もまた「写真」という形の中において可視され、顕れていることをこの人は見つめている。

三首目、からす瓜に象徴される「遺残」は、年嵩の両親から産まれた子の、親という人間の老い、衰えの様子をつねにみつめていることから生まれてくる表現だろう。

自身の存在の不安、遺されていく不安、そして孤独。自身の存在は自身によってつねに確認せずにはいられない。ひとつずつを辿って確かめるようにこの人は詠ってゆく。

果たして、この世に生を受けた自分とはなにか。心臓を病む前であっても、柚木は絶えずその答えを求めていたようにも思える。

いや、人は少なからずだれしもがその答えを求めて生きているようにも思うのだけれど、柚木の場合はその問いを外部ではなく、歌を詠むときの中心軸に据えていることであり、読者は束の間、共に柚木の生をなぞって生きるようにも思える。

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