八十四番 夭折俳人
左持
月明に続く夜明を囀れり 高橋馬相
右
八月は見ずに九月の螢かな 石川雷児
高橋馬相という名前は、今年一月に出た岸本尚毅『句集鑑賞入門 生き方としての俳句』(三省堂)で初めて知った。原石鼎門で、明治四十年(一九〇七)生まれ。昭和二十一年(一九四六)に享年四十、満年齢なら三十八歳で没している。岸本著は書名の通り、句集単位でホトトギス系の有名無名の作者を紹介したもので、馬相の場合は遺句集『秋山越』がその対象である。そこから二十一句を引きつつ鑑賞しており、左句や
秋光や頬に曳きたる耳の翳
うしろより月おし照りて花八つ手
磯不動昼の霞にともりをり
といった句に感銘した。早速『秋山越』をネットで探してみるとあっさり入手できたのは幸運だった。読んでみると秀句は岸本著の引用でおおむねカヴァーされている印象だったが、亡くなる前年秋の五句などを見るといろいろ思われることも多い。同年作の句で収録されているのはその五句のみで、下記の通りである(岸本著では四句目が鑑賞されている)。
秋山を越えきて寝るや水のごとく
秋風や燃えゐる薪をはこびゆく
冷やかに裁ちたる秋の袷かな
秋風にあらざるはなし天の紺
秋天のあをさ障子の外にあり
句集の年譜によれば、特に宿痾を抱えていたわけでもなく、胃潰瘍の静養中の急死だったそうだから、これらの句に辞世の意識があるはずはないのだが、没年の作が見えない(なんせ二月九日には亡くなっている)ためもあってか、辞世として読めてしまいそうな冷え冷えとした表情を湛えているのが目をひく。資質に加えて、敗戦の秋の作であることとも関わっているかも知れない。
左句は昭和十八年(一九四三)の作である。句集の配列からして、季語は月明=秋ではなく囀り=春。個人的には、馬相句中の神品ではないかと思う。満月に近い春の月が朝まで残っていて、やがて空が明るみ、鳥声が盛んに興ってきたという情景。「月明に続く夜明」という把握がなんとしてもみごとで、さりげない客観的な言葉遣いのうちに自然の壮麗が言い尽くされていてただただ感嘆。
左句を嘆賞するうちに右句を思い出したのは、こちらの作者もまた夭折の人であること、そして両句がいずれも自然と共に循環する時の流れを深いところで捉え得た作だからではないか。石川雷児は「雲母」に学んだ人で、塚本邦雄の『百句燦燦』に、
冬の馬美貌くまなく睡りをり
が採られたことで記憶されている。昭和十一年(一九三六)生まれ、胃癌により昭和四十八年(一九七三)没。満三十六歳と、馬相よりさらに短命であった。塚本著では、「冬の馬」以外にも、
おぼろ夜や紺を長子の色となし
早苗饗や岩々に月うすみどり
嶺ふたつあればふたつに秋の蝉
鶏頭の種子曇りをり山に雪
の四句が引かれているが、右句には言及がない。遺句集の『夏樫』を見るとこの四句を典型として取り合わせの句が多く、右句のような作りは全く例外的。塚本は見落とした右句を、師である飯田龍太はさすがに見逃さず、「たいへんな句」「そうそうザラにあるものではない」と激賞している。ただし、激賞のあまり「どうにも鑑賞のしようがない」と句の内部に踏み込まずに済ましてしまっているのは残念である。
ところにもよろうが、螢の盛りは七月。実際、すでに八月には影も形も無かったのが、九月に思いがけずにまた螢を見たというのである。おそらくただ一匹が闇の中にか細い光跡を曳いたものであろう。伏流水のように隠れていた螢のいのちの時間が、ふと目の前に顕れた、それを言いとめるのに絶妙の働きをなしているのが、これもあくまでさりげない「八月は見ずに」の措辞である。
月と太陽のいとなみを荘厳沈着に謳いあげた左句、小動物のあわれに沈潜する幽玄と細みの右句。いずれか譲るべき。持。
季語 左=囀り(春)/右=九月(秋)
作者紹介
- 高橋馬相(たかはし・まそう)
略歴は本文参照。出典の句集『秋山越』は、一九五二年、鹿火屋会刊。
- 石川雷児(いしかわ・らいじ)
略歴は本文参照。出典の句集『夏樫』は、一九七五年、牧羊社刊。