アイリスや妻の悲しみ国を問わず
昭和59年。『方壺集』より。
これは自らの妻のことではない。「およそ、妻と言うものは」という意味であろう。他の作家であれば、俳句のような一人称欠如文学では一般的な妻と自分の妻の像が解け合うのだが、憲吉の場合はそういうことはない。憲吉の妻のような悲しみは、国を超えても希有だからである。
自句自解によれば、日韓文化交流協会の文化交流訪韓団団長として憲吉が韓国を訪れたとき、慶州仏国寺石窟庵を訪問。その一行の中に二人の幼児を連れた宮崎から来た親娘がおり、仏国寺訪問の日がその娘の主人の命日であったという、石窟庵訪問が在りし日の主人の熱願であった由。ちょっとした小品のエッセイになりそうな素材であるが、舞台役者のように派手な憲吉の詠みぶりは、ポーズたっぷりな句になり、じめじめさを払拭している。それはそれで大上段の演技で悪くはないと思う。
ただ自解を読まなければ、普遍的悲しみ、例えば徴兵で戦場に出かけた男の妻のような例がまず思い浮かぶ。大上段すぎるからだ。
話は変わって、同時に詠まれた句が次の句。
チューリップ女王へ葉みな捧げ銃
出典は同上。上記日韓文化交流の主軸に日韓親善華展があり、楠心華道の作品に俳句を付けて展示した。チューリップの尖った葉が「女王様へ捧げ銃」をしている兵士のように見えたというのである。単純な見立てであるが、憲吉の見立てはこのようなドライで西欧画風の明るい構図が多い。
この時、憲吉は韓国との文化交流を積極的に進めたいと思ったらしいが、この時代ではまずらしい方ではなかったか。交流の対象に、演歌と俳句を考えていた。今生きて韓流ブームに大喜びだったであろう。