「詩」というものとの自覚的な出会いが遅い私にとって「好きな詩人」というのは語りにくいものである。好む詩人についても、ではその詩人のどの程度を知っているかということになると、恥ずかしながら最新の詩集またはいくつかある詩誌で目を通しただけということになりかねない。
が、あえてその不足した経験値の中でもあげるとしたらやはり「鈴木志郎康」という詩人をあげずにはいられない。
鈴木志郎康は二〇〇九年に「攻勢の姿勢 1958-1971」という書を刊行している。経験値の浅いわたしだが、これを手がかりにした中で、拙いながらも鈴木志郎康という詩人のどのような部分に惹かれるのか理由をあげてみたい。
一つ、その奔放な言葉遣いがある。というと、まずは『十五才の少女はプアプアである』に始まるいわゆる「プアプア詩」を思い浮かべられることだろうか。だが、何もそれを発揮しているのはプアプア詩に限らない。そして擬態、あるいは擬音というくくりすら考えさせられる不思議なオノマトペの数々は、独特の言葉でありながら、しっかりと命を吹き込まれていて力がある。時に荒々しいと言えるほど激しい魂がこもっているように感じられることもあるのだが、それが堅苦しく辛気くさく、くどくどとこちらに押しつけられるのではないのは、一つの魅力としてこのオノマトペが生き生きと作用しているからだと思われる。
またもう一つ感じることはどこまでもポジティブな感覚といえるものだ。鈴木は苦悩しない、というと言い過ぎかもしれないし、語弊があるかもしれないが、多くの詩人のように苦悩を露わにしているようには見えない。実はわたしが苦手とする作品の多くはこの苦悩がにじみすぎている感がある。それに比べると鈴木志郎康の詩にはそういったものから突き抜けた明るさとどこまでもポジティブな知的好奇心のようなものが感じられる。どんな困難や障害であってもそれを前向きに好奇心をもって楽しむことができる、そんなものすごいエネルギーを鈴木は未だに失っていない。それは七十を超えて刊行した「声の生地」を読んでも、また最近ではツイッターでの自宅の花についてのつぶやきを見ても思うことである。
鈴木の作品は今のわたしたち比較的若い世代がごく初期の作品を読んでもまるでごく最近書かれたものと思うほどに今の感覚にしっくりときておもしろい。鈴木の作品を読むといつも心が躍動してくるし、力が漲ってくる。いくつになってもどんなことでも自分がどん欲であればいいと思えることは素晴らしいなと思わせてくれたりもする。そう考えると今こそ多くの人がその作品を楽しむといい詩人として、わたし自身もますます好きになるし人に薦めたくなる詩人なのだ。
執筆者紹介
ブリングル(ぶりんぐる)
東京都出身
第49回現代詩手帖賞
詩集「次曲がります」(土曜美術社)
同人「モーアシビ」「ねこま」「おもちゃ箱の午後」ほか