入沢康夫はやはり、天才だ。
入沢さん本人に向かって、「入沢さんは天才です」と言い放った私は言ったことに安心して、その作品をすべては読んでおらず、今回のこの依頼に際し、あたふたと読む始末だ。
入沢さんが天才なのは、その詩の深さと多彩さだ。そして、その底にうごめく暗さだ。さらに、本質を捉える鋭い洞察力だ。動物的直観力ともいえる表現の飛翔する力もまさに天才的だ。今回、『入沢康夫の詩の世界』(邑書林)を読んでみたが、各氏の入沢論において各論において共感するところは多かったが、ぴったり「そうだ!」というものはなかったように思う。
入沢さんの詩は自分の持つ暗さをさまざまな手法で表しており、もちろん、それらは死を内在するものであり、絶望をかかえるものであるのだが、その暗さはある種、やすらぐところであったような気がする。『漂ふ舟』のような本当に暗い詩でも、その暗い片隅にうずくまり、自己が救われていたようなところがあったのだと思う。詩によってはその暗さを逆噴射的に楽しむ明るい表現も随所にあるのだ。例えば、最初の詩集『倖せ それとも不倖せ』の「輓歌」の最初部分「さて うたうのだった/ぼくの気ちがい ぼくの気ちがいと/ぼく 別れて /石につまずけば/花々は/とりどりに笑うのだった」
などはじめ、第一詩集からそういう表現は各所に見られる。
私のことで恐縮なのだが、私はひとつの仕事や事柄を終えてホッとした時、『生きていてもしょうがねェな』と、自分の底にある暗部にうずくまり、心でつぶやく時が一番、本当の自分に戻れる。自己の暗さにやすらぎ、楽しんでいる。
入沢さんが『入沢康夫の詩の世界』の中の「作者と読者―『漂ふ舟』をテクストとして」で、澤田 直さんとの対談で述べているのに、「(略)自分で詩を書く時に結局、自分の感覚、自分でもよくわからないある種の底の方にある大きな力にどうやって感応し、言葉をそれと一緒にふるえさせていくことがテーマになるわけです。そういう観点でぼくの詩を論じてくれた人はこれまではあまりいないけどね。どっちかというと意識的に構築した作品とか知性的な作品とかいわれる。確かにそういった面もあるけど、自分などはどうでもいいような大きな、宮澤賢治がいった言葉でいえば、『宇宙意志』とでもいえそうなもの、そういったものに添って何かを表現していく手だてであるような気がしますね」
というところがある。入沢さんは自分にとって羊水ともいうべきブラックホールのような心の暗黒に呼応し、絶望し、やすらぎ、楽しみ、詩作しているのだ。だからこそ、人々の心に呼応し、「いま」に呼応するのだ。
入沢さんが本物の地獄を実際に見ているということも、入沢さんの詩が死から立ち上るような周波を出す詩を作成できるのだと思う。心に常に持つどうしようもない暗部プラス自らの地獄くだりの体験により、入沢さんの詩は大きく開花する運命にあったのだと思う。
入沢さんはわかりやすい詩や短い詩も決して軽んじていないところも魅力だ。一九七八年発表した「未確認飛行物体」などがその例だ、そして、「詩の構造についての覚え書」などの詩論はいまでも学ぶべき点が多い。入沢さんの詩のさらなる新しい展開に期待している。