J・G・バラードだ。『沈んだ世界』だったか『結晶世界』だったか今では思い出せないが終息の美学とでもいう筆致。読み物であることを忘れて読みふけった。未来への賛歌ではなく過去への鎮魂であるかのように懐かしいペシミズムで彩られた雰囲気。末期的な退廃の怪奇に身を任せていると自分がどこへゆくのか、どこへもゆかなくてもよいのに苦しくなる。彼我の関係にもだえる。そして快感にふるえる。
世界が少しずつJ・G・バラードの描く地獄絵のように見えはじめ、そしてその地獄絵にまどろむ。透明で輝く終末。これほどまでの終末への情熱があるにもかかわらずそれでもなお生きてゆかなければならない。
そのようなときに出会ったのが
東京創元社版『エドガー・アラン・ポー全集』の第三巻「詩・評論・書簡」の中の例えば詩篇「エルドラドオ」その第一連。
その装いも いと華やかな
雄々しい騎士が
陽光のなか 暗闇のなかを
歌をうたって
はるばる旅を重ねてきた、
黄金の国をさがし求めて。
生きていくことに半信半疑の私にとってその騎士の登場は予感に満ちていた。何かをさがしさえすればよいのだと。喪失には探索で答えればよいのだと。きっと照らしてくれる。読みつないで。
影は答えた、
「月の山々を
のり越えた彼方 影の谷の
底深く 馬を駆れ、
雄々しく駆れよ、
黄金の国を求めるならば!」
黄金という言葉は現実という言葉の反対でもあるように考えられる。しかし現実という言葉をよく考え直してみるとこれは人間の社会関係の中での現在的な有り様、在り方であることが得心できる。関係の全体、したがってこの現実こそが大きな怪奇にすぎないことになる。怪奇的な物語、いや実は物語のすべてが現実を脅かす萌芽を隠しているのではないか。一つの物語が嘘であるのと同様この現実もまた偉大な嘘であるかもしれない。
しかし、この現実という怪奇を根源から揺るがすのは喪失ということであり、失踪である。確かに喪失は単なる出来事でしかないし失踪者は幻に過ぎない。しかし同じことが生の側へも跳ね返ってくる。生は単なる出来事でしかないし生者は幻に過ぎない。だからこそ様々な儀式が亡き者のため、制度化され語られてきた。語りつぐために私たちは生きてゆかねばならない。
そのような儀式が常に人類の長い歴史の中で問題になり続けてきたように思われる。何度でも嘘はつかれるのだ。詩の世界にもこのようなペシミズムが流れているのではないか。嘘をつくために複雑な方法が無意識なうちに未来への否定を諾っているのではないか。感動は未来にではなく今ここにある。そう、ふるえるために。言葉の進行を映す透明な鏡がJ・G・バラードの前に置かれていたことを発見し詩という言葉の可能性に出会ったのである。