私の好きな詩人 第52回 -友部正人-疋田龍乃介

友部正人の詩にはよく「ぼく」や「君」が登場する。でも陳腐なナルシシズムややかましさはあんまり感じない。なんとなく圧倒的に無自覚な代名詞のように聴こえるから謎の求心力を感じる。最近の作品から引用する。

無人の船を瞳に浮かべた/いじわるそうな女の子/ぼくが乗船しようとしても/誰もはしごを下ろしてはくれない/今夜も雨の中にたたずんで/ぼくは十年も前の歌を歌ってる/君は仏様に備えられた/果物みたいな女の子(いじわるそうな女の子)

仏様に備えられた果物みたいな「君」のことなんかそもそもわかりたくもないし、「ぼく」のことも割とどうでもよくなるのに、聴いていて楽しい。

詩を書き始めた頃、知らない人に書いたものを読んでもらいたくなって、とりあえず中学の頃から大好きだった友部正人のライブに自作をまとめたものを携えて向かった。いま思えばかなり野暮ったいことをしたと思うけれど、ライブ終わりの友部さんをロビーで呼び止めて、いきなり作品の束を差し出した。

「あの、詩を読んでいただけませんか」。思い切りよく持って行った割には友部さんの瞳に見つめられると不覚にも物凄い緊張してしまい、我ながら軽く変質者みたいな感じで話かけてしまった。相応に不審だったはずだ。にもかかわらず友部さんは笑顔であっさり、

「あ、いいですよ」

一つ返事で受けとってくださった。嬉しかった。嬉しい気持ちを持続したまま、とりあえず感想が聞きたくて三ヶ月ほど後の別のライブに足を運んだ。どきどきしながらまた同じように、ライブ終わりの友部さんをつかまえて、おそるおそる話しかけた。

「以前、詩をお渡ししたものですが…」

「ああ、はいはい。あのときの」友部さんは笑顔で応えてくださった。覚えていただいていたことがすごく嬉しくて、そのまま核心を尋ねた。

「あの、作品はどうでしたか?」

「覚えてない」

笑顔で即答だった。その一件を思い出しながら、いまとても彼の歌が胸に響いている。それはとても自然なやりとりだった。そして彼のステージの不思議な魅力と同種のものだった。詩全体が自然体というような印象はずっと揺るがない。友部正人は自然体の詩人であると思う。素敵だ。歌うことは下手に自覚を持たぬまま「ぼく」であるから楽しい時間なのかもしれないと想像する。詩もそんな風に奔放であればいいなと思う。

君が歌うその歌は/世界中の街角で朝になる/君が歌うその歌の/波紋をぼくはながめてる(朝は詩人)

もはや大阪に住んでいても大阪駅に立つとつい大阪へやって来たと呟いてしまうし、6月の雨の日にはチルチルミチルを口ずさみ、いつだってぼくは君を探しにきたんだと思う。ひりひりした初期の雰囲気から比べれば楽曲は全体的に明るくなった。けれどデビュー時から自然のうちにある歌は相変わらずだから、いつもすごく楽しい。

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