日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗 (2012/02/23)

三点差負けのサンガに異人あり没り日のなかにくりかえし呼ぶ 田中濯

「異人」『地球光』

確かに、水と呼ぼうが、H2Oと呼ぼうが、そこにあるものがグラスの中の
ひとかたまりの静謐であることには変わりないのでしょう。
けれど、この白い闇に閉ざされた言の葉の土地では、まなざしをまなざすことしかできないのです。
水を日常のまなざし、H2Oを化学のまなざしとするのならば、
同じ一つのものを捉えていても、まなざしが異なるわけですから、この土地では別のものなのです。

異人は外国人の古い表現として用いられますが、同時に民俗学でいうマレビトの意も持ちます。
伝統的な共同体において、その外部からやってきたもの。カミであるとみなされていたもの。
信仰も畏怖もされ、聖なるものでも穢れたものでもあったもの。
逢魔が刻は昼と夜のあわいの時間。マレビトは内部と外部の境界を越えてくるもの。
何でもないサッカーの場面です。京都パープルサンガが試合で負けていて、
アナウンサーがそのチームの外国人選手の名を繰り返し呼んでいる。
けれどそのスタジアムの一点にぽっかりと穴があいていて、そこから異界の風が流れて
くるのを感じなくもありません。

まなざしは異化である、と断言してしまいましょう。
世界はただあるがままとしてそこにある。けれど私たちはまなざすことを通してしか、
世界にふれることができない。まなざされたものは一つの異形であり、
まなざしをまなざしとはその異形をまなざすことにほかならないのです。
外国人選手を異人とまなざしたそのまなざしに、どのような歪みがこめられているのか、
それを計り知ることは私にはできません。
日本のサッカーチームに参加する外国人選手を、はるか古代にこの列島へ技術を伝来し
た渡来人になぞらえているのか、それとも文語的表現だからということで
異人という語を選んだのか。
前者であるならば深読みが過ぎる気がしますし、後者として片づけるには
異人の二語が持つ印象はあまりに強い。
異人という語が力を持つことを指摘するのは容易いのですが、
その語の持つ力について語ることはなかなか簡単ではないということです。

さてここからが蛇足のようで本題。
まなざしをまなざすことと、まなざしをまなざしたことを言葉にすること
の違いを、どのように言葉にすべきでしょうか。
前者をただ「読む」と言い、後者を「感想を言う」「批評する」と呼ぶわけですが、そこ
には微妙であるけれど安易には踏み越え難い亀裂があるように思えてなりません。
たとえばサンガはサンカに似ている。サンカというのは私にもはっきりとしない言葉です。
昭和期の作家、三角寛によって有名になった言葉で、
たとえば山窩や山家といった漢字をあてます。
「漂泊の民」といったようなフレーズで語られるある人々をさす言葉で、その人々は古
代人の生き残りとも、犯罪者の集団とも解釈されてきました。明治期には20万人くらいが
いて、1960年代にはこの世から消えたという、謎の存在です。虚構の存在かも知れない。
何にせよ、そのサンカというのも周縁的マージナルな存在です。
サンカとマレビトの関係については私の浅薄な知識では到底語れそうにありませんが、
似ていると捉えることはできる。対応していると考えることはできます。
けれどこれは勝手な主観です。あくまでまなざしはサンガを捉えているのであって、
それはサンカではない。サンガからサンカを勝手に連想するのは、
まなざしをまなざす私のまなざしが歪んでいるからにほかなりません。
だから口に出してこの歌の印象を語る時、周囲がどう思うかを考慮するならば、
サンカうんぬんについては言及すべきではない。
けれどまなざした印象の中から、サンガ=サンカを排除することは不可能なのです。
見えないものを見ることができないように、見えているものを見ないことができない。
まなざしと語りがそこから食い違い始める。
見て見ぬふりという欺瞞によって、言葉はどんどん歪んでいく。
それを言葉の限界と捉えるか、それこそが言葉を生み出す原動力なのだと
解釈するかは各々の別でありましょうが、まずはこの事実を確認しておく
ということで、いったんは目を閉じることといたしましょう。

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