海辺の家 伊藤聚
鎧戸がならんで
ひとつだけが顔
道のかげろうが喋りまくる
自身のパーツをすべて愛し
それよりすきなものは食べる
その真夜中だ
蔓草が登っていく
うちわのような葉を
窓にあてがうのだが
成長により屋根へずれていく
秋の染色に鎮まる
だれもいないのさ
子蛇が戻っていう
見つからないものは捜さなかったもの
背の斑紋が歪む
喋りつづけ
切株の下に隠してきた
ぬくもりの灯火を早くみつけようとする
芝生が冷えこむ
台所の白い扉で夜明かししたコオロギが
ぼんやりして
家の中の不在を教えてしまう
次の夜ももう同じこと
ポーチの投光機が
首をがたつかせる
犬が床下から出て
包帯を長くひきずっていく
部屋が ふんと言ったように
ドアの音がする
体臭がとっくに脱出して
ペンキがあとを追う
ちょっと離れるとまだまだ見られるよ
海へ向いているから
うつろはそのままで
この詩には語り手に対応する主語がない。タイトルの通りたぶん舞台は海辺の家で、ほとんどカメラみたいな語り手がまず家の外を周って、それから家の中に入って、もう一回出たんだと思う。見たり感じたりしたものを無駄なく並べていく上手い詩だと思う一方で、書かれたものを「以上を以て(私は)こう思いました」「こうしました」みたいな着地点に落ち着かせたりしないから、すごく丁寧に視線が動いていく一方で言葉がいつまでも放り出された感じがいっしょにある。関係あるのかどうか知らないけれど、生きているうちはよほどのことがない限りものを見る自分の目を直接見ることができないことが読んでいてふいにやってきた。
1連目の6行がすごい。鎧戸がこう視界いっぱいに流れていく途中に誰かの顔が無表情で遠くを見ている感じがこれだけの言葉で浮かんでくるのがすごい。そうしてつくりあげたイメージを早々に切り上げて休符みたいな1行を置いて、最後の3行で言葉のイメージを畳みかける手付きも鮮やかだと思う。その真夜中だ、って言われても困るし、それでいてこの1行が動かせない。言葉が言葉でしかなくて、ある一つの言葉が書かれた時点で何かしら新しい時間や空間みたいなものが紙の上に呼ばれる、その動かせなさが目の前に現れてきてどうしようもない。
この詩はなんか、言葉の持つ力というか、紙の上に現れて世界をつくっていく上での様々な機能をよく引き受けたうえで書かれているなーと思う。全然言い足りない感じがするけどそのたびにたぶん言い足りない感じがすると思う。こういうのはあんまり言いたくないんだけど、何度読んでも何かが手の中に一瞬だけ乗ったような感じがしてすぐにすり抜けていく。言葉の絶対的な足りなさを引き受けると同時に、それを上手く活かしたかたちで一つの世界をつくりあげていて何とも言えない。いや、その何とも言えない感じを上手く言えよって感じなんだけど。