挽歌と相聞 山城文雄
オアシスの冴え返った漆黒を
祭り夜がたまさか所有するから
あし音が規矩ただしく呻きわらい
一糸の道を舐めつくすように弾かれた歴史
の貌と解釈学者に白紙で覗かれて
固くこけた頬に 広場から群れ人が退き
あちこちで形見分けのように残り燃える
粗紙の延焼を映す――
キャンドル・ライトを挟んでいたのか
暗合をたどるように
ぼくらもう会うこともないでしょう
誰がいったい燭台を置いた?
秘匿された罪をしるすように
わかりあった虹彩めがけて
ほのおが洩れる
やさしい人の証しのように――
先陣の敗色が匂い来
わたしは左手でしら紙を探し
介錯人のように息をはかって
燐寸をする指先、爪に
くちびるの紅が載りうつる
さいごにかえしたい
あ、束の間の願いが燃え落ちて
あそこや向こうで鬼火の面相のまま
火片が乱れ舞うゆえ
ぼくらも進みだす(あし音はいつも挽歌に似るが――)
さよなら……さようなら
ぼくらもう会うこともないでしょう
いつかまた会えるか、それも言えない
もし言えるなら
後ろ姿だけ憶えてくれるように
そして記憶が曖昧なのをぼくらは
なによりも涙腺たたれた胸に刻むのだ
ここ一週間近く、主人公が往生することについてずっと何か言いながら競馬の話もしている、みたいな本を読んでいて、「この人は何語を使ってしゃべってるんだろう」と思った。そうやって過ごしているうちに、インターネットの回線を止められてしまい、「日めくりの感想を送るのもネットカフェ行かないとダメかよ」と思っていたら、明らかに残金が100円を切っているということで、出かけるのにも徒歩になっている。「これが文学だろ!」と思う段階をとっくにすぎて、単純につらい。
余計なことを書いてしまう、あるいは、これじゃ足りないかな、と思ってしまい、もう少し詳しく場所や気持ちを書いてしまう。欲が出て、書く速さに任せてしまう。そのせいで、せっかくいい感じに走っていた言葉が台無しになるということもあるし、逆によくなってしまう場合もあると思う。書きすぎることについて、量が質に変わる瞬間や、それまでの過程をどのように表現するかというのはむずかしい。たとえば、量を書くことで自分からはみ出してしまうような感じがあって、そのはみ出し方を吟味する目というのも大切だと思う。下手な着地を求めてしまえば、それだけで言葉は台無しになってしまうかもしれない。この詩は書きすぎて、面白かった部分が少し死んでしまった。
身体を表現すること、歩行を表現すること、それは誰も歩かなかったかもしれない道を歩くこと、あるいは、誰もこんなふうに歩かなかっただろう歩き方で歩くこと。あ、ここに力入れるんだ、みたいな力の入れ方。それが見える文章は読んでいて楽しいと思う。思わず真似したくなるような歩き方から始めてみる。ここで足をあげるとか。でも、絶対真似できねーな、と思うような歩き方もあるし、それに対して無視するか、しがみつくかの選択もある。絶対にどちらかの態度が悪いということはないと思う。読んで書くための読み方とは関係なく読もうと思えば、たんに紙の上の文字にすぎないもので、いくらでも悩むことができる。