私は頑張れないです
5月31日は、角川俳句賞の締切日(当日消印有効)であった。ここ数日をひたすら句をまとめることに使った読者の方も多いことと思う。
私自身は、俳句総合誌が主催する賞にはここ数年は応募しておらず、所属する結社「童子」の賞に応募している。今年で「童子」に入会して8年目になるのだが、句会にあまり行けておらず、スタッフとしての機動力にも欠けた、そこそこ若いだけが取り柄の何とも存在感のない会員であるので、出来れば挽回したいなあ…という小規模な野望があってのことだ。
句をまとめることによって、結社の求める句と自分が書きたい句との隔たり、もしくは重なりを感じることができるのも、非常にありがたい。隔たっていたらまずい、重なっていたら安心、という二元論を導き出したいのではない。こういう部分が自分には足りないが結社が強く求めているであろう点かしら、このあたりが自分が結社内で珍しがられているというかもっと伸ばしていって欲しいと思われている部分だろうか、と自分なりに想像するのだ。それをその後の実作で反映させるかどうかはまあ、ともかくとして。
これが俳句総合誌主催の賞であったらこうはいかない。どんな句が求められているか正直言って私には分からないし、分かったところでそういう句を作りたいかと問われれば「いえ、偉そうですが好きな様にやらせて下さい」と答えてしまいそうだ。自分をプレゼンする気概が私には残念ながら圧倒的に欠けている。無気力だね、根性がないねと笑われそうだが、笑われても見くびられてもいいから、穏やかな作句及び俳句発表の環境が私は欲しい。評論や文章を書くときは恐ろしく攻撃的というか目立ちたがり屋になるのだが、作句する自分はびっくりするほど野心がなく、むしろぐうたらだ。昨年、某ウェブマガジンなどでロックフェスに出かけて俳句を作ったりコミックマーケットに出かけて俳句を作ったりしたのは、攻撃的な自分がぐうたらな自分をけしかけているところも勿論あったのだが、句材のあるなしに関係なく、ただただ好きな場所で俳句を作ったら楽しいんじゃない? という実に短絡的な思考によるものだったのだ。
佐藤文香さんとか山口優夢君なんかは角川俳句賞でまあまあいいところへ行ったりしていますよね。僕も応募してはいるのですけれども。何て言うのでしょうね、賞を目指して取ろうっていう気持ちは割と純粋かなと思っていて、そんなに悪い傾向ではないというか。褒められようと思って頑張るっていうのは良い事なんじゃないかと思っています。
『「今、俳人は何を書こうとしているのか」新撰21竟宴シンポジウム全発言』(邑書林)より、谷雄介の発言
年代の若い順に配列がなされている『新撰21』の前半に掲載された若手俳人が外部の評価に依存しているのでは? という筑紫磐井の問いを受けての発言である。一昨年の年末に、共に登壇した「新撰21竟宴」の壇上でこの発言を聞き非常にショックを受けて、いつかこの発言について何か言うか書くかしようと思い続けて来た。この発言の翌年(昨年)、俎上にあがった山口が角川俳句賞を見事受賞したこともあってか、私の中では一部の若手俳人のメンタリティを象徴する発言になった感すらある。しかし、要するにこの発言に関して私が言いたいのは、冒頭のタイトルの一言、それだけなのである。
執筆者紹介
松本てふこ(まつもと・てふこ)
1981年生まれ。
2000年、作句開始。2004年「童子」入会。同年「新童賞」受賞。2006年 『現代俳句精鋭選集7』(東京四季出版)に参加。2009年『新撰21』、2010年『超新撰21』(共に邑書林)に小論で参加。
現在「童子」同人。
2011年6月3日号 後記 | 詩客 SHIKAKU - 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト
on 6月 3rd, 2011
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[…] 松本さんの俳句時評を読みながら、詩歌梁山泊では拾いきれるはずのないな自由詩のあまりに自由すぎることから生じていることについて、書かなければいけないのだろうかとおもって […]