『新撰21』『超新撰21』からの…?
『新撰21』『超新撰21』とはなんだったのか、などと総括させる時間を周囲に与えず、参加メンバーの快進撃が雑誌・書籍/ネットと媒体の区別なく続いている。『新撰21』参加後に角川俳句賞を受賞した山口優夢の第一句集『残像』は読書会も行われるほど話題のようだし(筆者はこの原稿を書き終わったら買いに行くつもりだ)、参加メンバーが立ち上げたサイトも、充実したコンテンツの提供であったり積極的なイベントの開催などによって旧来の俳壇ともうまくコミットしているようだ。というわけで今回は、『新撰21』に参加した中本真人と、『新撰21』で小論参加、『超新撰21』では百句で参加した青山茂根の句集を取り上げる。どちらの句集も、大いに読み応えあるものであった。
なまはげの指の結婚指輪かな
払ひたる手の甲に蠅当りけり
博士課程出でて職なき朝寝かな
中本真人句集『庭燎』(ふらんす堂)より、まずは自選十句の中から抽いた。彼は私と同年(昭和五十六年)の生まれで、大学時代は学生主導の句会でよく顔を合わせた。大学入学後に俳句を始めたところも同じだったからか、周囲に増え始めていた俳句甲子園出身の若手俳人への羨望とも焦燥とも言いがたい感情を共有しているのかな、というようなことを彼に対して思ったものだ(あくまで私の妄想だ)。
それはさておき、抽出句である。何でもないといえば何でもない発見なのだが、揺るぎない型によって小気味良い読後感をもたらす一句目。払った、と思った瞬間に思わぬところに蠅が当たってしまった「こんなはずじゃなかった」感が何ともいえずおかしい二句目。院試、修論、博論…かつて味わった勉学における苦しみ全てが遠ざかる朝寝の心地よさにひたりそうでひたりきれない、作者のプライドが透けて見える切ない三句目。一句目と二句目は『新撰21』に収録され、合同座談会でも取り上げられていたが、作者自身にとっても手応えを感じた句であったようだ。
秋の暮B面の歌ふとうたふ
初めてこの句を読んだ時は正直、「B面だなんてアナクロな言葉を…」と思った。だがその感想はこの句を正しく鑑賞せずに出たものだと今は思う。歌われた歌が発表されてリスナーの心を(きっと、あくまでひっそりと)捉えていた時代には「A面/B面」という概念が一般的で、彼はその概念というか時代ごとその歌を思い出して歌っているのだ。その歌は彼がほんの小さな子供だった頃、いやもしかすると彼が生まれる前の歌かも知れない。秋の暮という季語が呼び起こす、古い/新しいという二元論を超えた圧倒的な「古さ」が「B面の歌」というまだいくらか生々しさの残る「古さ」の残った素材と出会い、摩擦を生みながら「ふと」ひとつの懐かしい気持ちをもたらす。他愛がないように見えて、実は不思議な情感のある句だ。
何年か経てば思ひ出落第も
落第の生徒が夢に出て来たる
落第のすぐに広まる噂かな
落第の一人の異議もなく決まる
五カ国語言ふ電子辞書四月馬鹿
春愁の何でもなき字忘れけり
ぽろぽろと出て来る誤植四月馬鹿
捨てられぬポイントカード四月馬鹿
大学から大学院への進学経験、また教員としての奉職経験からか、教育の現場を扱ったり、知性にまつわる句が多く見られる。エイプリルフールを「四月馬鹿」と表記している点にも彼の知に寄せる意識の高さが感じられた。だが、授業中を板書そっちのけで自分の意見ばかり書いたり、またある時はマンガの回し読みと睡眠で費やした(要するにやりたいようにしかやっていなかった)私には、句に垣間みえる、彼の知的ドロップアウトへの恐怖になかなか共感しきれなかった。特に四月馬鹿の句。どれも「馬鹿」という字面で無理矢理笑わせられている気がして、いささかつらかった。
雪の駅絶えず遅延を報じけり
革靴の散らかつてをる花筵
抑へたる目に涙なし菊人形
ともあれ、一句目や二句目のざっくりしたモノの捉え方、三句目の言外のあはれ、その他にも大いに学ぶところがあった。
いはれなくてもあれはおほかみの匂ひ
西へ西へと向日葵を倒しつつ
極東の舌あづけあふ真葛原
旅客機に亜細亜の汗をもちこめり
眼を見ろと言はれ黄沙のただなかに
走つても花の都を抜け出せず
青山茂根句集『BABYLON』(ふらんす堂)より。正方形に近い判型が絵本を思わせる。トルコの絨毯のような色合いの表紙が美しい。「総て何処かエスニック、無国籍風の匂いがする」と、序にて中原道夫が書いているが本当にその通り。みずみずしい感性に裏打ちされた様々な地域の海外詠が収録されているだけでなく、茂根自身の資質によるところも多いように思った。こわれやすさと背中合わせの溢れる生命力、対象を見据える視線の強さ、スリリングな言葉の選択、先に挙げた句の「極東」「亜細亜」に見られる、アイデンティティの可変性への敏感さ…端的に言えばそういった点だろうか。高山れおなが『超新撰21』の合評座談会で「レトリックに託す形で世界の凡庸さ、自分を含めた事物のありようへの凡庸さへの拒絶感、怒りみたいなものが出ている」と茂根作品の特徴を指摘していた。ああ、うまいこと言われてしまった! 私もそういう感じのことを考えていたのに! とここの部分を読んで地団駄を踏んだものだ。実感を忘れずにいながら、基本的に概念としての性格が強い言葉を多用することによって関係性を構築(というか破壊というべきか)しているから、具体的な対象が見えにくいのかもしれない。その謎めいた作風が大きな魅力でもあるわけだが。
蚯蚓鳴くやうに誓ひの言葉など
帯締めてくる新海苔を出迎へよ
『超新撰21』『BABYLON』の両方に収録されている〈雛壇や殿上もまたさびしからん〉は鈴木六林男の〈天上も淋しからんに燕子花〉を踏んでいる、と『超新撰21』の合評座談会での小澤實の発言であった。先ほど挙げた旅客機の句を飯島晴子の〈旅客機閉す秋風のアラブ服が最後〉への茂根なりの回答、と感じ取ってしまう(のはこじつけが過ぎるかもしれないが)私としては、他の作家の作品の影響や影をまだまだ探してみたくなってしまう。
一句目の強烈な諧謔精神は、こちらもこじつけかもしれないが、どこか同門で句集の栞も執筆した櫂未知子を思い起こさせる。教会での結婚式をこの句から連想すれば、本来は架空のものであるはずの蚯蚓の鳴き声が、結婚生活における男女の闘争の、滑稽な開始のゴングと解釈したくもなってしまうのだがどうだろうか。
二句目の上五を読んで私は鷹女の「白露や死んでゆく日も帯締めて」を思い出した。白露の儚いイメージと対比させるように、新海苔の黒々と香り高い様子を「出迎へよ」と高らかに誉めたたえている。
なお、『超新撰21』には収録されていた〈夭折を果たせぬ我ら燗熱し〉が、この『BABYLON』には収録されておらず、何となくほっとした。ご本人にお会いした時に「この句、好きなんです!」と酒の勢いも借りて叫ぶほどに好きな句ではあるのだが、彼女はやはり死に憧れるより生のエネルギーをぎらぎらと放っている方が圧倒的に似合う。句集を手に取って、改めてそう感じた。