『トラッドジャパン』―「俳句」
先日、NHK教育テレビの『トラッドジャパン』という番組で「俳句」がトピックになっていて、いつも観ているわけではないんですけど、今回は気になったので録画してみました。この番組は日本の伝統文化を英語で海外で説明するコツは?、というのがコンセプト。本屋に並んでいたテキストによると、9月のトピックのラインナップは、俳句、とうふ、お遍路、日本のあかり。文学、食品、風習、道具と、バラエティをもたせようとうまく計算されていますね。英語でのコミュニケイションが主の全体的にはよくできた番組で、できるだけまったく知らない人にも一般的な説明で伝わるように、が狙いです。ので以下に書くようなナンクセ?は無粋なんですけど、自分の興味がある話題ほど、ンンン?と感じることがあることよなあ、と、しみじみ思ったので書いてみます。
番組の中心はトピックの2、3分ほどの簡潔な説明。「俳句」ではその始めは、
俳句は、五・七・五の17音で綴られる短詩で、世界で最も短い詩と言われます。
A haiku consists of 17 syllables—in three lines of five, seven, and five syllables respectively. Haiku are often called the world’s shortest poetic form.
となっています。テキストには後ろについている英語表現の解説のページ(Today’s Expressions)に別の日本語がついていて、そちらでは一文目「俳句は、それぞれ五・七・五の音節を持つ3行からなり、17音節を持っています」となっている。英語俳句、海外俳句について調べたことがありますので、その経験からいくと、これは英語辞書に載っている非常に一般的な定義です。俳句の形式的側面を簡略にまとめたものですが、注目は「五・七・五の音節を持つ3行からなり in three lines of five, seven, and five syllables」のところ。さて、「五・七・五」とはそれぞれ「行」なのか? もちろん、というか、俳句や短歌、川柳に馴染んでいる人にとってはこれらは「句」ですよね。ところがじゃあ、これが誤訳かというとそうは言い切れないところが難くて、和英辞典などを引いて「句」= “phrase”なんて訳してより実情に即したものになるかというと、そうでもない。
日本人、少なくとも、ちょっとは日本語短詩型文芸に興味を持つ人間としては、一作品一行で書くのがスタンダードだ、というのは、ほぼ共通認識であろうと思います(テレビ番組でフリップボードを見せて添削する、といった特殊事情がある場合を除いて)。石井辰彦氏が『現代詩としての短歌』(書肆山田、1999)で、短歌は一行の詩である、というのを力を込めて主張されていたのも思い浮かびます。が、これもまた微妙な問題があって、私見では、日本の伝統詩型と言うのは、厳密にいえば、「行」の概念をもたない詩であるというべきだと思っています。和歌の墨書を見ると、別に一行で書ききることに拘っていないし、しかも句の切れ目と行の分け目を一致させることにも拘っていない(「分かち書き」は純粋にヴィジュアルな要請によるものですね)。教科書で習うと一見「行」がありそうな漢詩でも、書で見ると、実際には点も丸もなくだらだらと漢字が並んでいて、五言絶句だからといって五字で次の行へなんて丁寧なのはまずない(全体の字を数えて、韻を確認しないと、結構慣れている人でも読めない)。西洋詩の導入以前には、日本の詩に「行」の概念はない、現代の短詩型もそれを引き継いでいて、「行」があるように見えるのは活版印刷や教育上の視覚的スタンダード化の効果に過ぎないと思うのです。それでも、短歌の雑誌で一首の最後が二行目に、しかも句の中途で(純粋に一行の字数の都合で)移っていたりして、それがしばらく関わっているとヘンに見えなくなるのも(最初はヘンだと思いますよー、読みにくいもん!)、そのせいだろうと思います。
英語でこうした事情を説明しようとすると、とても3分では収まりそうにありません(と言いますか、日本の俳人とでも長々と議論になりそう……)。しかも、他の国の一般人がこのような特殊事情に興味をもつとは思えませんしね。で、5音、7音のまとまりが何なのかをどう伝えようか、となると、やっぱり西洋詩の「行」を近似値として(私たちにとってはあまり近くないですけど)使うより他はなさそうです。いやいや、やっぱり、手を抜いてはいかんな。ちょっとやってみると、
俳句は、17音から綴られる短詩であり、5音、7音、5音の三部に分かれていることが多い。
A haiku consists of 17 syllables, which are usually divided into three parts: five, seven, and five syllables.
なんか、おしゃれじゃないし、詩の説明っぽくない無味乾燥さですけど、少なくともちっとは正確か。上の定義でも厳密に言うと、日本語の一音は“syllable”(音節)じゃねー、とかいろいろあるんですが、さらにややこしいことになるので、略。
これが本題じゃないのに、ずいぶん長くなってしまった。さて、『トラッドジャパン』でいちばん気になったのは以下の部分。
[季語に加えて]もう1つの特徴は、「切れ字」と呼ばれる表現方法です。句の中にどこか1か所、言葉の流れがストップするところを作ります。
例えば、松尾芭蕉の有名な一句、古びた池にカエルが飛び込み、その水音が響く、という内容です。
古池や 蛙飛び込む 水の音
「古池や」の「や」が切れ字になっていて、言葉と言葉の間に余白が生まれます。読み手に、表現されていない部分を想像する「間」を与えるのです。
Another unique feature is the use of kireji, or ‘cutting words.” There’s a kireji somewhere in every haiku, which serves to break up the flow of the poem.
これは、明らかに事実誤認です。この定義によると、「猪の鼻ぐすつかす西瓜かな 去来」なんてのは俳句(ここで、俳句と発句の用語の違いはとりあえず置きますが)ではないのですね。「切れ字」と「切れ」の違いが抑えられていませんし、ハイクは必ず二章構成だ、というはなはだしい誤解を海外の方々に与えることになりそうです。テクニカルな問題ではありますが、ここは外しちゃいかんでしょう、という気になりました。
ただし、「切れ」というのは、日本の専門俳人でも確たる共通認識はないようなので、しょうがないかなという気もします。また、自己の見解をもっている作者であっても、英語のみならず日本語でさえ、短文では十全に説明可能か、ちょっと疑問(筑紫磐井氏の「定型詩学」の長大な説明を、岸本尚毅氏の精妙な「俳句の力学」を、俳句と短歌の違いも知らない人に3分で説明して、ホラ!と言われても……)。また、俳諧時代と俳句時代の切れの違いとその背景(『連歌俳諧研究』120号掲載の堀切実氏の講演に面白い指摘がありましたが、書いていると記事が倍になるので、略。こればっかり……)とか、まあタイヘンですね。個人的には、俳句作品も俳句文化も翻訳可能である、という立場なんですが、その実作業をやれといわれると、とてもボランティアではできませんなあ、と。
ともあれ、個人的には俳句の原理では「切れ」が一番興味のあるところなんで(川柳との違い、あるいは違わなさに関して、です)、もう少し詰めて考えてみたい。そのためのひとつのヒントにはなりそうです。