「東京マッハ」vol.2潜入記
前回は寡聞にしてイベントの存在すら知らず、その後ネット上での賛辞一辺倒でもdisられまくりでもない反響を知り、「見逃した…惜しいことした!」と大いに悔しがることとなったイベント「東京マッハ」。第二弾が行われると知り「これだ! 次の時評のネタはこれだよ!!!! 前回の時評とも繋がるじゃん、いいじゃん!」とひとりで悦に入っているうちに前売りチケットが売り切れていた。慌てた。
「東京マッハ」のイベントを知るには、こちらも時評で取り上げたかった現在発売中の女性誌『SPUR』12月号(集英社)をご覧頂くのがいいかもしれない(俳句とファッショングラビアのコラボページも掲載されている。何だかとっても、オシャレである)。ライブ形式の句会であること、観客も選句が出来ること、こういった点が大きなポイントと言えようか。今回の出演者ラインナップはゲストの池田澄子も含めると俳人2名、作家、ゲームクリエイター、司会者は文筆業。
というわけで10月29日。当日券を入手出来る見通しが立ったものの、当日券では会場に入れるのは開演10分前なので手持ち無沙汰気味でチラシをあさったり所狭しと貼られたポスターを隅から隅まで見たりしていたら、明るい髪の色の女性が会場へ降りる階段を降りようとして躊躇していた。それから丸眼鏡をかけた男性が会場を訪れた。彼は女性と知り合いのようで、声をかけられてその後和やかに談笑していた。私にはとりたてて喋る相手もいなかったので、ぼんやりと会場前の商店街の喧噪を見つめていた。
そうこうしているうちに入場可能な時間となった。会場に入り、配布された選句用紙を読み込む。選句用紙にふられたナンバーは121。120人は来ているということである。三十句の中から、特選一句、並選六句、逆選一句。ライブスペースならではの薄暗さの中での選句、新鮮である。喉を適度に潤しながら急いで選句を終えた頃に、イベントは始まった。
司会の千野帽子は、論の印象と同様のくだけた(ように聞こえる)語り口が持ち味。そのフランクさの裏に見え隠れする毒までも、論から受けるイメージそのままのように思えた。芥川賞作家の長嶋有はとぼけて軽妙なおしゃべりが楽しい。彼は大体、ある状況下でより優位に立っている人であったり事物(ex:イケメン、リア充)へユーモラスかつストイックに拒否反応を示していたのだが、その潔癖ともいえる徹底ぶりに何というか侠気のようなものを感じた。ゲストの池田澄子は『新撰21』のイベントなどでしか生で喋っているところをきちんと見たことはなかったのだけれど、句と同様にたたずまいや語り口にも淡い蠱惑的なムードが漂っており、それに会場の観客の多くが魅了されているようだった。ゲームクリエイターの米光一成は、「東京マッハ」という会であったり俳句そのものを一歩引いた視点から見た発言に独特のキレがある。俳人の堀本裕樹はこのメンバーだからか、俳句の結社の句会が懐かしくなるような、いわゆる俳句プロパーど真ん中な発言が目立ったが、その立場上他の三者からのツッコミを一身に受けるボケのハーレム状態と言うべき美味しいポジションだったことも事実。イベントの終盤に言葉のテクニシャンぶりを見せつけ、会場をどよめかせたのだがこちらは後述する。
いくつか会場で話題となった句と、それにまつわる批評をご紹介したい。
出演者の中で最も人気のあった句はこちら。
冷めて色濃い芋の煮っころがし淋し
「『淋し』は本来使っちゃダメな単語だけれど、この句の場合はこの『淋し』が良い」と、食べる営為の淋しさを言い当てた句の手柄に言及する堀本。千野が形容詞の使用そのものがもたらす陳腐さを面白おかしく語った後に言い放った「形容詞から腐っていく」という一言も鮮やかであった。言葉を腐らせるはずの形容詞がこの句の場合、むしろ句全体を生き生きと立たせる効果をもたらしているところが面白い。句またがりの気持ち良さという口承の面での長所、冷めていて色が濃くておいしい、なんて芋くらいだよね、という食べ物俳句としてのキャッチーさも指摘されていた。作者は池田澄子。
葡萄棚より一本コードらしきもの
この句は私も並選で選んだ。波多野爽波の「巻尺を伸ばしてゆけば源五郎」のような、線状の物体に沿ってなされる視線のコース取りが非常に印象深かったのと、葡萄棚という生々しい事物からコードという人工物が垂れ下がるトリビアリズムすれすれの面白さに取らされた。この句を特選にした長嶋は「コード」という題の出題者でもあり、カタカナを用いるだけでその句に「新しさ」を背負わせる俳句の句評のフォーマットの古さを嘆きつつ、生活感のある、むしろ古くさい光景を平熱の感覚で詠むこの句のセンスに感心していた。「葡萄棚に」ではなく「葡萄棚より」としたところに、「葡萄棚」という、葡萄棚独特のごちゃついた景を表した字から簡単なコードという字が垂れ下がる景を想像したという池田の指摘が興味深かった。「らしきもの」というぼかし方に注目した、という句評もあった。作者は米光一成。
橋で逢う力士と力士秋うらら
その日の昼間のすばらしい晴天の力も大きかった一句。「ちょっと変わったバンドのPVみたい」という千野の評に大きくうなずいてしまった。アジアンカンフージェネレーションあたりがこういうPVを作りそうだなあと思ってしまった。滑稽の句として取った、とは堀本の発言。確かに、とぼけた俳味が不思議ににじみ出てくる。「ありえるけど見たことないファンタジックな光景。BLみたい」とは米光の発言。長嶋があっさりと作者を名乗り「橋を渡ったところで待っているよ」という、角界を揺るがした八百長メールの一節から着想したことを激白。そのメールには絵文字が使われていたらしいという、新聞社に電話までして得た裏情報まで披露してくれた。物語性豊かな光景を平明な表現で何の技巧も使わずそのままに抽出したかのように見せた、さりげなくテクニカルな一句である。
白桃のまだ決まらないほくろの場所
観客に人気だった句。この句を取った観客のひとりがコメントを求められて開口一番「この句じゃなくてもよかったんですけど」と答え、大いに会場が沸く。句会では聞けない、この適当さにあふれた発言が逆に新鮮で楽しい。言葉で説明できない直感が働いたのかもしれない。素直に白桃の句と読めば痛みや傷のことをほくろと表現していると取れる。しかしそういった表現が面白いのかという点に池田が疑問を呈していた。そこがこの句を取るか取らないかの分かれ目なのだろう。一方、白桃を赤ん坊のメタファーではないか、と捉えた読みも登場し、読みのブレを誘うなかなかに難物な一句であるなあと感じた。作者は千野帽子。
すこやかに未来あるべし小鳥来る
千野が「震災後の今の状況でこういう句が出てくることに感動した」と評した句。句会では出演者・観客ともそれほど点を集めなかった句だが、実は驚くべき仕掛けがあったのだ。「すこやかに」の「す」、「未来あるべし」の「み」、「小鳥来る」の「こ」と池田の名前を詠みこんだ挨拶句になっている。そして池田の最新句集『拝復』所収の句「野に在りて小鳥ごこちや百千鳥」への内容面での呼応も見られる。作者は堀本裕樹。「むしろこのまま流されちゃ困る句だった」と言いながらも少し照れくさそうな自句自解に会場内からは大きなどよめきと感嘆の声がおこった。
出演者以外にも、文芸評論家・豊崎由美、それから以前この欄で紹介した短詩系女子ユニット「guca」から佐藤文香・太田ユリが登壇し、適宜句評に突っ込むという出演者と観客の中間のようなスタンスで参加していた。彼女たちの存在が、出演者と観客との垣根を曖昧なものにし、その後の観客の句評への参加をスムーズにしていたように思う。
印象深かったのは、「東京マッハ」vol.2を支配していたあるノリのようなものだ。登壇した人々はもちろんのこと、各界の著名人が観客席にいて俳句を楽しんでいるよ、そんな俳句ってどうよ! あなたもやってみませんか、かっこいいでしょ、というノリである。以前『短歌があるじゃないか。』を読んだ時にもこれに近いノリを感じた。あなたも大好きであろう有名人がこんなに気軽に短歌を作っているよ、だからあなたもやってみませんか!? という、ちょっと気恥ずかしくなるようなキラキラ感。私は今まで俳句にまつわる場においてそういうキラキラ感を感じたことがあっただろうか。うーん、ない気がする。
最後に種明かし。本文中に唐突に登場した丸眼鏡の男性はお笑いコンビ・ピースの又吉直樹で、同様に登場した明るい髪の色の女性が前回の時評でご紹介した木村綾子であった。そうと分かる前から分かった後まで穴の開く程見つめてしまった。大騒ぎするでもなく、無言で、あまり瞬きもせず、である。お恥ずかしい話である。